最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼館長裏日誌 令和6年10月4日付け

◎ 見仏記のお話 その1
 阿弥陀如来像で有名なのは、鎌倉の大仏や長野の善光寺などですが、一番インパクトがある像は六波羅蜜寺の「空也上人立像」ではないでしょうか。空也上人の開いた口から木造の小さな阿弥陀立像が六体現れ出るあの像で、これは空也上人が「南無阿弥陀仏」すなわち六字名号を唱えると、その声が阿弥陀如来の姿に変じたというものです。
 この「空也上人立像」については、あの「見仏記」(いとうせいこう、みうらじゅん著、1993年刊)で、いとうせいこうさんが「踊りながら念仏を唱えてストリートに生きた上人は、私にとって尊敬すべきラッパーだ」と言い、ニューヨークの某ラッパーが自身のラップを、エデュケーションとエンターテインメントを合わせた「エデュテインメント」であると称したことに対し、「この言葉を聞いた時、私はまっさきに空也上人のことを思い出した」と著述しています。
 その後、東北を取材し山寺「立石寺」を訪れます。山寺に登ると、仏像のことはそこそこに奥の院にある如法堂にたどり着きます。そこには結婚写真や素朴な絵が並び、それは生前、結婚できずに亡くなった人をあの世で結ばせるという、いわゆるムカサリ絵馬の類なのですが、みうらじゅんさんは「やばいよ、ここ」と言い「俺、さすがに手をあわせるよ」と合掌。いとうせいこうさんもその時、仏像の後ろにある十数段の棚に小さな花嫁人形がびっしり詰まっているのに気付き背筋が凍った、とあります。この如法堂、実は僧侶の修行として非常な労力を必要とする写経を行う場です。「法華経」を1 文字ずつ写し1文字写すごとにひれ伏して経の全文を3回暗唱します。このため、法華経8 巻全てを写すのに4年かかることも。写し終えた経は、うるう年の 11 月 28 日に円仁への捧げものとして、納経堂に納められるそうです。
 この「見仏記」の取材から25年後、「新TV見仏記」(DVD「新TV見仏記(20) 〜みちのく山形編」としても発売)の取材で、再び山寺「立石寺」を訪れるとともに、癒し系の平安仏がある「吉祥院」も訪れています。この吉祥院は千手堂とも言われ、その奥之院の厨子には、平安時代初期の作とみられる一木造りの立像があり、中央に千手観音菩薩像、右に菩薩立像(伝薬師如来像)、左に菩薩立像(伝阿弥陀如来像)の三躰が祀られています(事前申し込みで拝観が可能とのこと)。また、このお寺の庭には小さなテーマパークというか等身大の双六のようなものがあります。千手観音などの石仏を百八個の踏み石が囲むように並べてあり、最後の「百八」と彫られた石の先にある「消除」と彫られた石まで行くと、百八個の煩悩や厄が消えるというものです。自身の百八個の煩悩や厄を思い出しながらその石を踏みしめると、結構キツイものがあります。

◎ 見仏記のお話 その2
 「見仏記」の末文に「三十三年後の約束」というのがあります。最後の取材となった宇治の平等院の阿弥陀仏を観た後、一番最初の見仏記で寄った京都駅構内の喫茶店に入り、一年以上にわたる取材を振り返ったいとうせいこうさんは、昔そこで、みうらじゅんさんと交わした「三十三年後三月三日三時三十三分三十三間堂で会いましょう」という約束を思い出しています。そして、その約束の2025年が迫るこのタイミングで、5年ぶりの「見仏記」連載を始めるそうです。
 三十三間堂の正式名称は「蓮華王院本堂」というのですが、三十三間堂と呼ばれるのは建物の桁行、つまり柱と柱の間が33ある寺ということからです。ただ、この「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語で、実際、三十三間堂の柱間寸法は一定ではないそうです。ここで重要なのは、その柱の数の多さとかではなく、仏教における33という数字の意味です。33という数字は、すべてを見通し、すべてに慈悲を示す観音菩薩が、33の異なる姿になって人々を救済するというもので、観音菩薩が三十三間堂の本尊であるのも偶然ではないとのことです。
 ところで「三十三観音巡り」というのが全国各地にあるとは思いますが、山形県内には3つの三十三観音巡りのエリア(最上、庄内、置賜)があり、それを束ねて「やまがた出羽百観音」としています。3つの三十三観音を合わせて百観音としているのは他所にもありますが、1つの県の中で完結するのは「やまがた出羽百観音」だけとのこと。山形県では、「札所だけでもおよそ100、ランチや休憩できるカフェ、お土産どころや名所旧跡、立寄施設などを組み合わせると巡り方や旅の楽しみは、無限大に広がります。」と算盤を弾いています。一方、暗算の得意な方は「三十三観音×3で99観音では?」と思われるかもしれませんが、最上三十三観音には番外(世照観音)、庄内三十三観音には首番(荒澤寺)と番外(観音寺)があり、これらを加えた102観音をやまがた出羽百観音と称しているそうです。いずれにしても四捨五入ということで。
 一方、四国八十八か所巡りにおいては、その遍路にあるうどん店を巡る「うどん遍路」というものもあるそうです。札所をめぐることを「打つ」と言いますが、すると「うどん遍路」では、うどん店を打って、打ったうどんをいただく、ということになるわけです。「ラーメン県そば王国やまがた」を標榜している本県においても、「やまがた出羽百ラーメン」を打つとか、「やまがた出羽百そば」を打つことができそうです。
 これを例えば最上三十三観音エリアについて言うならば、最上エリアにはそば店もラーメン店もそれぞれ33店以上は確実にあり、もしかしたら、逆打ちで違う店を巡れるくらいあるかもしれません。店がなくても、山菜そばやゲソ天そば、鳥中華や冷たいラーメンなど、バリエーションを変えればいけるかと。山形県では2泊3日で巡るモデルコースを掲げていますが、「そば打ち」、「ラーメン打ち」となると普通の人は1日5、6食が限度で、つまり一週間程度が必要かと。しかもこればかり食べる日々続くという、これもひとつの難行苦行ではあります。
 そう言えば「水曜どうでしょう」というTV番組(山形では今でもそのクラッシック版が毎週放送されています)ではかつて、四国八十八か所を巡っていましたが、大泉洋さん、どうでしょう、最上三十三観音。今年の春先、クルーズ船「飛鳥U」を貸し切って2泊3日の旅をしていたようですが、山形新幹線「つばさ」貸し切りで最上三十三観音巡りというのは。あるいは最上三十三麺巡りはどうでしょう。一日平均10食以上となれば、きっとすばらしい画が撮れると思います。

◎ 最上三条十三観音のお話
 最上三十三観音には順番がついているのですが、別にこの順で回る必要はないそうです。その第一番の札所は天童市にある「若松寺」。開山して1300年、「西の出雲・東の若松」と称されている縁結びのパワースポットです。一方、死後の婚礼の様子を描くムカサリ絵馬も数多く奉納されています。ムカサリという言葉は、山形の方言で婚礼を意味するもので、山形県の村山地方に集中しているそうです。この若松寺がムカサリ絵馬の風習の中心的役割を果たしているとのことですが、若松寺への参道には「四輪駆動車以外通行できません」との看板があり、冬期間は前輪駆動車での来訪はご遠慮いただいているような場所にあります。
 最上三十三観音札所は、第1番「若松」(天台宗 鈴立山 若松寺)、第2番「山寺」(天台宗 宝珠山 千手院) 、第3番「千手堂」(天台宗 守国山 吉祥院)と続くのですが、それは山形城主最上家四代目満家の子・頼宗の美しい一人娘・光姫が、自身をめぐる争いで命を絶たれた武将を憂いて出家し、老人に姿を変えた観音様の導きにより三十三の霊場を巡った、という伝説に由来すると伝えられています。以下、最上三十三観音札所別当会のHPからの抄録です。
「そのはじまりは室町時代までさかのぼる。かつては、今の村山地域と最上地域を合わせた広いエリアを「最上」と呼んでいた。南は上山市から北は秋田県境に近い鮭川村まで、最上川沿いに点在する観音堂の佇まいは、私たちの暮らしを見守ってくれる。
 輝くように美しい光の姫という名をもつ光姫は、七歳の春、母を失い、乳母・信夫の手に育てられた。信夫は仏門の出で、姉は成沢村安養寺の尼僧で、安養比丘尼と呼ばれていた。
 光姫の天性の美形は、地方の大名たちの噂にのぼり結婚を望む者も多かったが、父の頼宗は、京都五条に住む右衛門佐頼氏を姫の婿養子とした。この時、頼氏は21歳で器量人、姫は18の秋、まさに好一対の夫婦雛であった、と当時の記録は伝えている。
 その一方、姫への慕情を断ち切れず、悶々とする者もあった。殊に、最上鮭川の領主・横川大膳国景は、姫との婚礼を切望し、再三にわたって頼宗に申し込んだが拒否されていた。姫の結婚後も忘れることができず、秘かにその略奪の機会を狙っていた。
 結婚翌年の春、頼氏夫妻が平清水の大日如来に参詣する日に、大膳の一味は茶店の者や大黒舞などに変装して紛れ込み、姫に接近しようとした。しかし、護衛の侍たちにより守られ、頼氏は負傷する。その後、頼氏の傷の養生に、夫婦が高湯に湯治に出た時である。大膳は高湯からの帰途を襲ったが、かえって逆襲されその一味はすべて逮捕されてしまう。大膳をはじめ一味の主な者三名は、馬見ヶ崎の河原で処刑となった。
 姫の心には、その出来事が大きな影となってのしかかってきた。古文書によれば、「城中に大膳の亡霊が現れ、姫を悩ました」とある。姫は出家を決心した。相談を受けた乳母の信夫はこれをとどめようとするもかなわず、姉の安養比丘尼のもとに行くこととし、二人は男に変装すると城をぬけ出した。比丘尼も何とか止めようとしたが同意せざるを得ず、三人で旅の支度をした。
 数多い観音霊場のどこからまわりはじめたのか、行方のあてもなく歩いているうち、三人は野宿を覚悟した。ふと山際に燈火がかすかに見え、それをたよりに行くと、八十余りになる翁と姥が住む小屋だった。老人は、昔は旅の見世物師で、あちらこちらの祭礼に出かけていたため、霊場のことなら知らぬところはないといい、一番から三十三番までの道筋を詳しく書いてくれた。
 小屋でのもてなしで空腹も満たされ、三人は夢路に入ったが、朝、目を覚ましてみれば小屋はなく草の中であった。不思議なことに、霊地のことを記した書き物だけが残っていた。これこそ観音さまのお示しであると、三人は西方を礼拝し、巡礼に旅立つ。その巡礼は、ほぼ2ヵ月にわたったが、姫は妊娠していた。身を寄せた農家で、姫は無事、玉のような男児を産みおとした。これが「若松君」であり、観音霊場一番の名をとったものである。」
 この物語の前後にもなかなか因縁深いドラマがあるのですが、詳しくはこちらのHPをご覧ください。なお、最上三十三観音限定ご朱印帳もあります。
それにしても、光姫も駒姫も最上家の美人はなぜか、その美貌があだになる話ばかりです。

◎ 花笠音頭の謎
 天童市報平成24年8月号の「市長の部屋」で、「花笠音頭」と「若松寺」について、つぎのように執筆されています。
 花笠踊りの「花笠音頭」では、2番の歌詞に「花の山形 紅葉(もみじ)の天童 雪をチョイチョイ ながむる尾花沢 ハァ ヤッショマカショ」と、4番の歌詞に「めでためでたの 若松様よ 枝もチョイチョイ 栄えて葉も茂る ハァ ヤッショマカショ」とあり、「紅葉の天童」と「めでためでたの若松様」が山形県民謡である「花笠音頭」の中に謳われ、皆さまから広く親しまれて歌われていることを大変喜ばしく思っております。若松様とは、縁結びに御利益がある寺として有名な天童最古の名刹「鈴立山(れいりゅうざん)若松寺(じゃくしょうじ)」
 さて、ここでちょっと面倒なことがあります。山形県花笠協議会の花笠音頭では「花の山形紅葉の天童」の歌詞は8番目にきています。一方「めでためでたの若松様」の歌詞は、第1回目の花笠音頭パレード(山形花笠まつり)に向けて新しい歌詞を一般公募したもので、県内外から100を超える歌詞が集まり、その中から13歌詞を選定し、従来からあった2歌詞を加えた15歌詞で構成したことによるものです。もともと花笠音頭の歌詞はその地域により違いがあり、一説によると150以上もの歌詞があるらしいです。
 これが一般的な民謡集やカラオケでは、1番目の歌詞となっているのは「めでためでたの若松様」で、花笠まつり当日に生歌を披露する大塚文雄さんの場合も、1番目がこれで、2番目が「「花の山形 紅葉の天童」です。三橋美智也さんの場合も1番目がこれですが、2番目以降は全く違います。都はるみさんの場合は1番目が「そろたそろたよ 傘踊りそろた」と花笠協議会の歌詞に従い、4番目に「花の山形 紅葉の天童」がきます。
 とにかくいろいろで、それはそれでいいのですが、ここで謎なのが、天童市長が述べられた、2番「花の山形 紅葉の天童」、4番「めでためでたの 若松様」というのは、一体どこのバージョンなのかということです。いや、それを知ってどうしようというものではないのですが。
 なお、「ヤッショ、マカショ」という囃子ことばは、築堤工事の土突(どんつき)の際の調子をあわせる掛け声から出たといわれています。しかしながら一説によると、ヘブライ語で「ハァ ヤッショ、マカショ」は、「見よ、神の救いを!神の隠れ家である新天地を」という意味であり、日本を発見した時の喜びの声ということですが、もうええでしょう(byピエール瀧)。

2021.10.04:最上義光歴史館

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