最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼館長裏日誌 令和6年9月10日付け

〇 高札について推理の話
 この高札については何分にも当時、懸賞金をかけても見つからなかったぐらいなので、真相はわからないのですが、勝手に推察すればいくつかの説が考えられます。
 まずは義光と政宗は家康と親交があったことから、反家康勢力の仕業という線があげられます。この高札が徳川邸前に掲げられたということからすれば、まずは、家康を挑発することを狙ったものではという推測ができるかと。ということで、
・推理その1 この謀反の黒幕は家康だということを世間に広めたかった説
・推理その2 義光や政宗のために家康が何らか動くのではという陽動作戦説
・推理その3 家康と義光・政宗との仲をこじらせようとする説
 いずれもこれは、反家康派すなわち石田三成近辺が怪しいということになります。次に誰が得するかという点からすれば、
・推理その4 義光と政宗を失脚させたいという説
 義光と政宗が失脚すれば、地政学的にありがたいのは上杉であり、また、秀吉の思惑もあるので、誰が得なのか素直に考えれば上杉説となるのですが、上杉としてはわざわざ高札などを立てず秀吉と話をすればいいわけで、可能性としてはまずないかと。
・推理その5 世間がドン引きした秀次切腹と三条河原の処刑への言い訳として、秀吉側がとにかく誰かに罪をなすり付けようとした説。
 それにしては「義光・政宗が国を二分して治めようとした」という話を持ち出すのは無理がありすぎで、また、秀吉は「此両家をば世上にてにくむと見得たり」とは言ったものの、この高札事件でかえって疑惑がとけ、義光・政宗の幽閉も解除されました。
 この謎解きについて当館学芸員にもきいてみると、次の説がでてきました。
・推理その6 もしかしたら「愉快犯」かもという説
 京からすれば奥州などは人が住むことすら想像できない道の奥。そんな所の武将が関白秀次とつながり、秀吉に拘禁され取調べられているらしい。いっそ、国を二分して治めようとしていたとして、家康の屋敷前とかに高札を建てれば面白いんじゃない、としたものではないかと。しかしながら義光・政宗ペアというのは、京の都でそれほど耳目を集める人物であったのかというと、「はて?」としか言いようがなく、確かに「伊達者」は話題になっていたとは思いますが。
 そこで、サスペンスミステリー好きのもう一人の学芸員にきいてみたところ、
・推理その7 家康が全てを読み切って高札を立てた説
というのがでてきました。つまり、このくらいバカバカしい内容の高札を立てれば、秀吉もこれはバカバカしいとして、義光・政宗を釈放してくれるはずと読み切って、自邸前にこれを立てたと。おおっ〜、なんという結末。しかもこれは、振り上げた拳の行き場に困っていた秀吉も、話を収めることとなった家康も、当然、救われた義光や政宗も三方良しという結論となるわけですが、さすがです。

〇 鷹狩りの話
 「鷹狩りと言えば家康」というくらい、家康と鷹狩りは切っても切れない関係で、幼少期の人質時代には鷹狩りを心の癒しとし、生涯1000回以上鷹狩りをしたそうです。駿河城本丸跡にある家康像にも、その左腕には鷹が止まっています。
 家康の鷹狩り有名なエピソードとして、政宗の鷹場と家康の鷹場は隣接していましたが、誤ってそれぞれの猟場に入ってしまい、それぞれ互いの姿を見つけたものの、その場は気付かなかったふりをして戻り、後日それを互いに詫びたという話があります。
 また、「文禄・慶長の役」いわゆる朝鮮出兵のときに義光は、肥前名護屋城に家康とともにいて、その戦況を語る手紙で、「ふしぎに出羽も我等も此度の命をみつけ候。やがて国へくだり、たかをつかい候はん事、ゆめかうつつかとよろこび候」と家康から言われたと書いています。 
 武士たちにとって鷹狩りは、スポーツであると同時に社会的なステータスであり儀礼的な側面もあります。鷹狩りとゴルフとは似ているというのも、例えば政界や経済界の方同士がゴルフをやるのはそういうことでもあり、もちろん健全なレジャーや健康増進としてやられる方も多いとは思います。実際、「徳川実紀」には家康の言葉として「鷹狩は遊娯の為のみにあらず。(中略)筋骨労動し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、をのずから病など起ることなし」と記されています。また、多くの人を使うため合戦の指揮に役立つことや、山野を駆け巡るため領内の視察になることも鷹狩の利点としてあげているそうです。織田信長は鷹狩あたっては、用意周到な準備をもって家臣にあたらせ、もって戦の練習ともしたとか、関東へ転封された後の家康は、民情視察のための鷹狩を繰り返し行ったそうです。
 さらに鷹狩りは一種のステータスであり特権的なものでもあり、鷹の飼育や狩場の管理などが必要でもあったのですが、足軽出身であった秀吉には鷹狩りを楽しむ余裕などなかったと思われます。よって秀吉には鷹狩に対しある種のコンプレックスもあったのではないかと。秀吉が鷹狩りに興味を持ちはじめたのは、天正15年(1587年)の九州平定後と言われます。鷹の産地として有名な日向国を島津氏は擁しており、島津氏は秀吉を、家格が武士ですらないことを理由に、関白としての権限を認めないと言っていたのですが、秀吉は九州平定により屈服させ、その島津氏を鷹巣奉行に任じています。その数年後、「大燒」(高野とは鷹狩りのこと)という大規模な鷹狩りを開催します。大人になってから始めた趣味は恐ろしいとはしばしば耳にしますが、特に金と権力を持ってから始めた趣味というのはそんな感じがします。
 また秀吉は、秀次に対して天正19年(1591年)12月20日に「五ヶ条の訓戒状」というものを出しています。前4条は天下人としての一般的な心得を述べたものですが、最後の条では「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」とあるそうです。秀吉はわが身を振り返りこう訓戒したのだとは思われますが、鷹狩りの他に茶の湯と女狂いですか。まあ、金と権力がなければ心配のしようもないことではありますが。

〇 現在の鷹狩の話
 鷹狩は幕末まで頻繁に行われることとなりますが、明治維新後は次第に衰えていきました。宮内庁には現在も「鷹師」「鷹匠」が存在しますが、戦後,宮内庁が公式な鷹狩を行わなくなって久しく、千葉県と埼玉県にある鴨場の管理や鴨猟を行なう鴨場の管理などを行っているそうです。なお、毎年1月2〜3日に浜離宮恩賜庭園にて「諏訪流放鷹術保存会」による「新春放鷹術実演」がなされています。
 江戸時代には沢山の鷹狩りの流派がありましたが、今も残っているのは「諏訪流」と「吉田流」の二つ。「諏訪流」宗家の初代小林家次は戦国時代に織田信長が諏訪から招き入れた鷹匠といわれ、信長の死後は徳川家康に召し抱えられました。現在、その第18代宗家大塚紀子さんがこの浜離宮恩賜庭園の新春放鷹術などを担っています。現在日本で鷹匠を名乗っている人は50人ほどで、実は「鷹匠」を名乗るのに必要な資格がなく、個人が鷹を飼えば誰でも名乗ることができるそうです。
 その第18代宗家のインタビュー記事によると、「人鷹(じんよう)一体」ということが大事とのことで、「人馬一体」というのは良く耳にしますが、やはりそういうことなんですね。そうそう、猿回しにも人猿一体芸というのがあるらしく、また、猿と客とが一体となる感動芸もあるといいます。ちょっと違うかもしれませんが。
 なお、現代の鷹狩りについては「天皇の鷹匠 花見薫著 2002年」とか「放鷹新装版 宮内省式部職編纂 2010年」とか「鷹書の研究 三保忠夫著 2016年」とか、とにかく宮内庁が中心となりますがいろいろな書籍があるようで、私としては実はどれも手にしたことはないのですが、興味のある方はいかがかと。
 また、公家や武家の鷹狩りとは全く異なる、狩猟のための鷹狩りについては、実は山形の天童市に最後の鷹匠という方が住んでいて、これは使う鷹も狙う獲物や場所も時期も違うもので、詳しくは「ほぼ日刊イトイ新聞」の「幡野広志、東北の鷹匠に会いに行く」(2019/2/1〜2/5)に記事がでていましたのでご覧願えればと思います。このインタビューの中で、鷹狩りはカラスの追い払いもできるとはありましたが、知らない土地だと、迷ったり怪我したりするリスクがあるため難しいらしく、実は山形市でも過去に数回実施したことがあるのですが、続けられませんでした。

〇 チャチャの話
 皆様ご存じのとおり、秀頼を生んだ淀殿の本名は「茶々」です。なぜに茶々と名付けられたのかはよく知らないのですが、当時としては珍しくない名のようです。
 さて、「チェリー・ピンク・チャチャ」と言う曲があります。実はペレスプラード楽団の名曲「セレソローサ」(Cerezo Rosa:ピンクの桜)の別名です。冒頭のあの引っ張るだけ引っ張るトランペットパートは、この楽器をされる方なら一度はやってみたいのでは。この曲には同じペレスプラード楽団のバージョン違いがいくつかあり、掛け声が入るものと入らないものがあります。特にライブ録音と思われる盤の掛け声はとてもよく、自分もこれに合せて「ウ〜ッ!」と声を出してしまうのですが、そのタイミングが意外に難しく、なかなかうまく合わせられません。
 「セレソローサ」は1955年、全米ヒットチャートで10週連続第1位を記録しましたが、その頃の日本ではとある「チャチャチャ」がヒットしていました。1955年に発表された「チャチャチャは素晴らしい」(Miragros Del Cha Cha Cha)という曲です。オリジナルはキューバのエンリケ・ホリン自作自演の曲なのですが、その年(昭和35年)11月には江利チエミさんが、同年12月には雪村いづみさんが、この日本語版を続けざまにリリースしたのです。どちらも日本語歌詞にスペイン語歌詞が挟まるもので、スペイン語どおりの訳もあるにはあるのですが、創作部分も結構ありまして、それがもうなんというか。「おまわりさんも踊り出す」という歌詞は原語どおりなのですが、江利チエミ版は「今にも死にそうなよぼよぼのおばあさんも、中風のおじいさんも、しまいにはチャチャチャ」と続き、それが「おーっとあぶない、そらこけた」となりまして、これが後発の雪村いづみ版ともなると「娘は甘茶で、チャッチャッチャ、年寄りゃ渋茶で、チャッチャッチャ」と、まさしくチャチャが茶々となり、「お寺じゃ坊さん、木魚を叩いて なんまいだ〜でチャッチャッチャ お釈迦様、踊り出す」となります。そこに若干こぶしのきいたスペイン語がはさまるわけで、ラテン音楽の好き嫌いにかかわらず、是非、皆様に一度は聴いていただきたい。当時、洋楽を日本語で歌うカヴァーはごく普通ではあったのですが、ここまでも意訳すらも超えてしまうと、ウーム、まあ、日本語の歌詞なんて、当時は問題にならなかったのかもしれませんが。
 ところでチャチャとは、キューバのトリプルマンボから発展したチャチャダンスというのが由来とのことで、それをもとにキューバ生まれでメキシコで名をあげたペレスプラードが、1950年代にアメリカに持ち込みチャチャチャとなったそうです。
 そのキューバで最も知られた歌に「グァンタナメラ」(Guantanamera)というのがあります。1929年の曲ですが、一度聴いたら忘れられない、馴染みやすい曲です。いろんな時代にいろんな方が演奏していて、手元にもさまざまな演奏家が演奏したこの曲を18曲収めたCDがあります。
 ネットでこの曲を検索すると、コロナ禍の中、小野リサさんが各楽器のパートとネット中継で結び、この曲を演奏している画像がありました。特にミュージシャンにとっては大変な時期ではありましたが、今は小野リサさんは、週一ぐらいのペースでライブ演奏を行っているようで、今年でデビュー35周年(!)、ボサノヴァ誕生65周年ということで、慶賀の至りではあります。
 そういえば、30年以上前に、東京のとあるライブハウスで小野リサさんの演奏を聴いたことがありまして、当時すでに大人気で、たまたま行った当日、最前列席にキャンセルがあり、間近で観ることができたのですが、失礼ながら彼女についてはボサノヴァを歌う人程度の認識しかなく、てっきりスタンダード曲を歌うものとばかり思っていたのですが、見事にオリジナル曲ばかりで、実はそれまで彼女のアルバムを聴いたことがなく、ノルにノレずに帰ってきたことがあります。すみませんでした。

2021.09.10:最上義光歴史館

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