最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼「続・伊達政宗毒殺未遂事件の真相」 佐藤憲一
続・伊達政宗毒殺未遂事件の真相
はじめに
伊達政宗毒殺未遂事件については、『歴史館だより Vol.6』(平成十一年三月発行)で「伊達政宗の母義姫」と題し論じたことがある。一九九四年に発見された虎哉和尚の手紙(文禄三年十一月二十七日 大有和尚宛 仙台市博物館保管)をもとに、伊達家の正史「貞山公治家記録」(元禄十六年 仙台市博物館所蔵)の義姫山形出奔の時期の誤りを指摘したものであった。同時に通説の根拠とされてきた「貞山公治家記録」の信憑性への疑問と事件の全面的見直しの必要性を述べたものであった。
その後、この事件について調査・研究を進めてきたが、その成果は「伊達政宗と母義姫―毒殺未遂事件と弟殺害について―」(『市史せんだい』Vol.27 仙台市博物館、二〇一七年九月)として発表した。その中で、東京都あきる野市横沢(旧五日市町)にある真言宗の古刹、大悲願寺の伊達政宗書状(写真1)や過去帳などの資料をもとに、政宗毒殺未遂事件と弟小次郎殺害は、小田原参陣という伊達家存亡の重大局面を前に、伊達家の一本化(兄弟争いの根を断ち切る)を図り、小田原で政宗に万が一のことがあっても伊達家が存続できるように、政宗と母が共謀した偽装(狂言)ではないか、と述べた。母による毒殺未遂事件はなかったし、弟小次郎も生きていた可能性が高い、というのが結論である。
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(写真1)
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今回、歴史館より前回以降の研究成果を紹介してほしいとの要請があり寄稿することにした。『市史せんだい』発表と重複する部分があることをお許しいただきたい。
なお、義姫の名前については「貞山公治家記録」に拠って「義姫」として論を進めていく。一次資料で政宗の母の名前を確認できないためである。当時は「お東」「お東様」と呼ばれていたようである。義姫自身も手紙に「ひがし(東)」と署名している。これは夫、伊達輝宗が隠居後「東」と称していたためだろう(注1)。これに対し政宗は家督相続前「西殿」と呼ばれていたようである(注2)。米沢城の輝宗と政宗の居所が東西に分かれていたことによるものだろうか。以上のことから、ここでは適宜「義姫」「お東」の呼び名を使用していきたい。
(注1)
天正十二年極月吉日 伊達政宗宛伊達輝宗正月行事 『伊達家文書』三一九号。「受心(伊達輝宗)」と署名し、「東より」「館(伊達政宗)へ」とある。
(注2)
(天正十年)五月十一日付で伊達輝宗と同政宗に宛てた勝光寺正壽書状(『伊達家文書』三一六号・三一七号)を見ると、輝宗宛書状では宛所が「伊達殿 御陣所」とあるのに対し、政宗宛書状では宛所が「伊達西殿 御陣所」となっている。
事件を捏造したのは政宗本人である
松尾剛次氏は著書『最上氏三代』(ミネルヴァ書房、二〇二一年)の中で、前掲の『市史せんだい』の拙論を踏まえ「政宗毒殺未遂事件の話は事実ではない」「『貞山公治家記録』が捏造した話である」「毒殺未遂事件は伊達藩によって捏造された事件である」(二六頁〜二七頁)と述べている。言うまでもなく、捏造とは「事実でない事を事実のようにこしらえて言うこと」(『広辞苑』)である。事件が捏造されたものであることはその通りであるが、捏造したのは政宗本人であり、母義姫との共謀であったと考えられる。勿論、母による政宗毒殺未遂事件はなかったし、政宗による弟小次郎殺害もなかった。手討ちにしたことにして寺へ逃した(出家させた)と考えられる。大悲願寺の十五代住職秀雄が小次郎本人である可能性が高い。
では何故このような事件を捏造したのだろうか。これを解く手掛かりとなる資料がある。事件直後に政宗が側近の鬼庭(もにわ/後に茂庭)石見守綱元に宛てた書状である。全文は「貞山公治家記録 付録」に収録さえている。その中で弟殺害の理由を将来内乱が起こることを未然に防ぐため、と述べている。つまり弟擁立の芽を摘んで伊達家の一本化を図るためであった。しかし、弟を殺しては小田原で政宗に万が一のこと(豊臣秀吉の命による切腹、打首など)があった場合、伊達家の血統が途絶えかねないおそれがあった。当時政宗には実子がなく、長男の秀宗(後の宇和島藩主)が誕生するのは事件の翌年、天正十九年(一五九一)のことである。血統を絶やしかねないたった一人の弟殺害は考え難い。
鬼庭石見守綱元宛書状の検討
事件の直後、事件の経緯を側近の鬼庭綱元に知らせた政宗の書状については、これを偽書とする見解もあるが、書状が本物であることは『市史せんだい』で述べた通りである。この書状が佐沼亘理家(宮城県登米市迫町)に伝来した綱元宛政宗書状(亘理家の記録では一七五通あった)の一部であることは、松山茂庭家(宮城県大崎市松山)が江戸時代に作成した「貞山君尺牘」(茂庭宣元氏所蔵)によって明らかである。「貞山君尺牘」には佐沼亘理家伝来の綱元宛政宗書状十五点が写し取られており、この書状も入っている(写真2)。なお、この書状の原本は所在不明である。
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(写真2ー1)
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(写真2ー2)
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書状の中で政宗は、膳に毒を盛ったのは御東(母)と思われ、皆が噂をしているように母が自分に替えて弟を擁立しようと企んでいること、このまま弟が成長すれば将来、弟との間に争いが生じることは確実であること、たとえ争いが生じても自分一人死ぬことは何でもないが、そうなれば今は平穏な洞(うつろ。領内)が又々珊瑚斑(さんごまだら。内乱)となり、家臣たちに苦労・難儀をかけることになること、このため可哀そうだが止むを得ず弟を手討ちにしたこと、この上は母の命に別状がないよう願っていること、などを詳しく打ち明けている。そして、最後に「このような思い(胸の内)は、誰にでも話せることではない。そなたには話しておく。しかし、そなたの方で斟酌して、よいと思うことは世間へ口説き広めてほしい」と意味深長なことばで締め括っている。
政宗が言う兄弟対立への危惧が客観的にどれ程現実味を帯び、差し迫っていたかは不明である。小田原参陣という重大局面を前にした政宗の思い過ごしであった可能性が高い。ただ内乱への不安は、伊達家四代にわたる親子相克(十三代尚宗と十四代稙宗、稙宗と十五代晴宗、晴宗と十六代輝宗との間の親子相克)に見られる骨肉の争いへの警戒心から来ていたのかもしれない。文中で「平穏な洞が又々珊瑚斑となる」(傍線筆者)と述べているのが、それである。
弟殺害については母との共謀がなければ捏造は困難だろう。たった一人の弟を実際に殺したとしたら、どのような理由であれ、母は政宗を赦すことはなかったと考えられる。事件後の手紙、そして山形へ帰った母との間で、また最上氏改易後に仙台へ戻った母との間で交わされた二人の手紙を見る限り、親子の情愛、信頼は一貫してゆるぎないものであったと言わざるを得ない。
まとめ
結局、この鬼庭綱元に宛てた書状が事件を実際にあったこととして伝えることになった最大の原因だろう。政宗自身が語ることであり、誰も疑うことがなかった(出来なかった)。この書状以外にも「貞山公治家記録」が参考とした資料に「木村宇右衛門覚書」(晩年の政宗に仕えた小姓の一人、木村宇右衛門がまとめた伊達政宗の言行録。仙台市博物館所蔵)がある。その中でも政宗自身事件の経緯に触れ、弟を手討ちにしたと述懐している。「貞山公治家記録」の編纂者を含め、誰も疑う余地はなかったのである。
■執筆:佐藤憲一(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)「歴史館だより30」より
※写真「大悲願寺本堂(東京都あきる野市横沢)」
▼「歴史館だより30」ダウンロード(ファイル/3.8MB) >>こちら
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2024.01.16:最上義光歴史館
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