最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼館長裏日誌 令和5年9月26日付け
■光禅寺の所在地
ちょっとややこしい話ですが、光禅寺は最上義光が生前、当時の「三日町」(現在の七日町)に開創したのですが、没後、城主が最上家から代わったときに現在の場所(現在の鉄砲町)に移転しました。その際、その地名も「三日町」とし、もとあった場所は「元三日町」という地名になりました。つまり光禅寺がある地名は当時、「鉄砲町」ではなく「三日町」となるのですが、例の「山形風流松木枕」では、「今三日町」と記されています。「元三日町」と「今三日町」、当時、「三日町」の呼び分けには、やはり工夫が必要だったようで。
■山形の立ち位置
戦国時代以降、全国各地で鉄砲が生産されましたが、以前は特定の地域で火縄銃が生産され、米沢や仙台は全国有数の生産地であったそうです。つまり上杉と伊達なのですが、最上はいつもその狭間にいる感じです。
山形市内の鮨屋での話ですが。山形は内陸の盆地で、川魚以外に地魚などあろうはずもないのですが、「山形は庄内と塩釜の間にあり、いろいろ仕入れることができるんですよ。」と言っていました。まあ、いろいろは入手できるようですが、新鮮なものは地元で、いいものは東京に行ってしまうわけでして。
鉄砲も似たような状況で、山形は米沢と仙台の間にあります。鉄砲は生ものではないので、鮮度とかは関係ないかもしれませんが、でも、最新式のものとかはどうなのでしょうか。まあ、いろいろは入ってはくるかも。
ちなみに、「米沢筒」は、長さ1メートル、重さ6キロの十匁筒が有名とのこと。重いので運用は難しいが威力に優れているそうです。一方の「仙台筒」は多口径多種類の銃を取り揃え、どちらかというとシンプルで口径の大きい銃が多く、また、騎兵が使用する馬上筒も多いそうです。上杉といい伊達といい、デカい口径が好きなようで。ちなみに、最上義光の兜に残る鉄砲玉の跡はやはり、十匁の玉によるものでは、とのことです。殿、よくぞ御無事で。
2020.09.26:最上義光歴史館
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