最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼【8】 奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか
奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか【8】
8.おわりに
57万石を領する全国屈指の大大名となった最上義光公は、騎馬揃を通じてその威勢を諸国に見せしめるねらいがあったことは、軍記からも読みとれ、次のことから満たされるものと思われる。
(1) 東山麓に陸奥国から笹谷峠を越え関沢・山形を経て、秋田へ通じる横道と隣接している。
(2) 庄内から六十里越街道を経て関山から陸奥国へ通じる。上記(1)と交差するのが原崎である。
(3) 天童城下から天童原を通過し、原崎に至る道があった。
(4) 旧国道13号線(図-5参照 羽州街道)は慶長8・9(1603・1604) 年頃開削されたといわれているが、糠塚付近にあった久野本、老野森はそれ以降に羽州街道に移転したという。
従って、馬揃えにかかる労役などは天童原や山家、移転前の久野本、老野森などから調達することは可能であったと思われる。
(5) 広大な天童原は旧天童氏家臣野村・藤田氏らの所有地で畑地として利用されていたと思われるが、天正12(1584)年天童氏は最上氏に滅ぼされたため、最上家の領地となっていたこと。
(6) 天童原を見渡せる高さ10m弱、周囲400m程の糠塚という丘が展望が良く陣場として利用できる場所があったこと。
このことから山形市から12q離れた内陸部の中央に位置し、上述の如く、交通路の要衡地原崎に隣接していることや広大な原野は最上家の領地であったこと。
一方、現東根市神町の天童原(若木原)と現天童市荒谷の寺原はいずれも管理された林地等であることが、後年の差出明細帳などから推察することができる。
従って、「最上郡天童の野」は現天童市糠塚から東方、天童市立第二中学校及び山形県立天童高等学校周辺、地籍名は大字久野本、老野森などを、「天童原」と考えるのが妥当と思われる。
本稿をまとめるにあたり、尾花沢市文化財専門員大類誠氏には尾花沢の原野の馬揃について御指導をいただいた。また、天童市山口土地改良区理事長伊藤定夫氏には原崎地区圃場整備事業の原形図など関連資料の提供をいただいた。
記してお礼申しあげます。
■執筆:矢野光夫
参考文献
@「奥羽永慶軍記」 P.943〜944復刻 今村義孝 校注 2005.2.20(有)無明舎出版発行
A「奥羽の驍将 最上義光」 P.39 誉田慶恩著 昭42.6.15 (株)人物往来社発行
B「尾花沢市史」上巻 P.274 平成17.10.15 尾花沢市発行
C「新庄市史」上巻 P.588 平成元.10.31 新庄市発行
D「現形図」天童市原崎地区圃場整備事業 昭和46.7.1測量終了
E「神町のむかし」 P.13〜14 平成17.7.30 神町歴史の会発行
F「山形市史資料」 第64号 山形風流松木枕 P.39 昭和57.11.30 山形市発行
G「天童市史編集資料」 第2号 P.85 昭和55.12.1 天童市発行
H「天童市史」上巻 P.382 昭和56.3.31 天童市発行
I「羽陽文化」 第46号 P.1 県下の土師住居阯群 ―天童光戒壇―柏倉亮吉、山崎順子執筆
昭和35.4.5 山形県文化財保護協会発行
J「最上四十八館の研究」 P41・44 丸山茂著 昭和53.5.31 (株)歴史図書社発行
K「天童の地名考」平成9.3.30「続天童の地名考」平成11.3.31天童市旧東村山郡役所資料館発行
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2021.04.15:最上義光歴史館
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