最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼山形紅花の行方
◆◇◆山形紅花の行方◆◇◆
古田織部が曽我又左衛門に宛てた一通の書状(慈光明院所蔵)によって、一六一〇年ごろには「紅花なら最上」という定評が上方では成立していたことが明らかだが、このころは、山形の大名最上家からのお土産としても紅花は京都の公家衆に喜ばれたものらしい。慶長十六年(一六一一)に、公的な用務を帯びて江戸に来た公家山科言緒の日記にこんな記事がある。
十月二十三日、晴
一 早朝寺へ参る。 一 最上駿河守(家親)宅を訪問。 一 新城(江戸城本城に対して新たに建造された西の丸か)にお伺いした。
寺とは、増上寺だろう。数日前に家康が江戸に来ており、城内ではさまざまな催しがあり、増上寺の和尚も登城している。
十月二十五日 晴
一 大久保相模守(忠隣)へ早朝伺った。一 最上駿河守が私の宿へ訪ねられ、紅花を五拾嚢贈って下さった。
こういう記事である。同行してきた公家仲間の船橋秀賢の所へも、最上家の使者が来て同じように「紅花五十嚢」を届けてくれた。(秀賢、慶長日件録)
出羽の大名最上家から天皇に仕える公家たちに対する大事なプレゼントである。みやげを「土産」と書くように、己が領地でとれる「いいもの」、他の土地の物よりすぐれたもの、そう自慢できる物品が出羽国では紅花だったわけである。
そこで疑問。もらった紅花を、彼らは何に使ったのか。
考えるヒントが、山科言緒の日記十月二十九日の条にあった。彼らの勤務先である朝廷のお歴々に配っていたのである。配分先は次の通り。
禁裏(宮中)へ十嚢、仙洞(上皇御所)へ十嚢、女御(天皇の側にお仕えする女性)へ十嚢、関白近衛信尹へ五嚢、近衛殿政所へ五嚢、 以上で四十嚢。あとの十嚢についてははっきりしないが、江戸下りの長旅の土産物でございますという具合に、天皇・后、廷臣のトップたる近衛家に差し上げたのだった。
献上を受けた方々も、喜んだのだろう。
話し変わって、最上家の重臣、東根城主であった里見薩摩守が、連歌の添削指導を頼んだ相手、里村昌琢にお礼として送ったのも紅花であった。年不詳、七月二十七日付。
「おととし見てさしあげた一巻が確かに届いたとのこと、まずよかった。ところでこの度は二百韻(二百句、百韻連歌二巻)到来、確かに添削します。(お礼の)紅花二十斤届けてくれたようで忝い。玄仍が遠行(死去)したことお聞きになったでしょうか。吃驚なさったことと存じます。思いがけないこと、致し方ありませぬ。」
この手紙のとおり、ここでも紅花は最上からお礼の贈り物となっていたのである。昌琢がこれを何に使ったか。今、それはは分からない。
朝廷の高貴な方々にしても、紅花をどのように使ったか。それも不明。残念だが、今後の研究にまつほかない。
最上時代に山形名産となった紅花、ついの行方はいずこなりや。
ついでだが、里村玄仍は最上家とは大変ちかしく付き合っていたが、慶長十二年四月に亡くなっている。
■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより20/研究余滴13」より
2020.04.14:最上義光歴史館
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