最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼「山形城の瓦出現期の様相について」 齋藤 仁

山形城の瓦出現期の様相について

はじめに
 瓦は窯業製品であり、胎土に水が浸透し冬季にそれが凍る凍害が発生するため、雪国には不向きの建築部材である。江戸後期の史料であるが、山形は「寒国故御櫓之瓦年々損スル」(「山形雑記」『山形市史編集資料』第64号)と、冬季の気象条件により瓦が消耗すると強く認識されていた。それにもかかわらず、近世初頭の山形城の改修と同時に瓦が採用されるようになり、山形城での瓦採用は、城郭建築に伴うこの時期特有の政治的・社会的判断があったことは想像に難くない。この近世初頭における瓦出現期の様相と、その系譜を探ってみたい。

1 瓦の出現時期
 山形城本丸御殿跡で、多量の近世初頭の瓦が出土しているが、多くに被熱の痕跡が認められる(金箔瓦を含む)。これは瓦葺き建物が火災に遭ったことを示しており、その年代がわかれば、瓦出現の時期を考える重要な手掛かりとなる。本丸の火災は、12月7日付最上義光書状に「其上本丸ニ火事出来候」(秋田藩家蔵文書)とあるのが唯一である。これは年号を欠いているが、慶長4年説(『山形市史 年表・索引編』)と同7年説(宮島新一2010年「県下に残る桃山時代の城郭御殿障壁画」米沢市上杉博物館『図録戦国大名とナンバー2』)の両説あり、このどちらかとみてよいだろう。この火災より以前に、瓦は採用されているのである。では、製作年代はどこまで遡るであろうか。山形城の改修は、文禄2年(1593)に最上義光が「うちたて((内館))のほりふしん((堀普請))」(伊達家文書)について家臣に指示していることから、この段階ですでに開始されていた。「うちたて((内館))」は後の本丸を指すとみられる。最上氏時代は他に本丸の火災の記載はなく、現在までの発掘調査で火災の痕跡は一度のみであるため、文禄2年頃に製作された瓦が、慶長4〜7年の火災で焼失したとみるべきであろう。山形城の瓦は、金箔瓦を含め、豊臣政権時代に生産が開始されたのである。

2 瓦の系譜
 山形城で特徴的に現れる「山文」の軒丸瓦は、京の聚楽第城下町屋敷でも出土している。出土位置は、尼崎本「洛中洛外図屏風」(尼崎市教育委員会蔵)に描かれた最上義光京屋敷と位置的に近く、この瓦は最上屋敷に使用されたと考えられる。聚楽第城下町屋敷は、天皇行幸をひかえて天正19年の京中屋敷替えによって成立した、諸大名の京の邸宅街である。ここで山文軒丸瓦が発案、採用され、本国の山形城への生産へとつながっていくのである。
 ところで、最上家の家紋は、足利家の庶流であることから足利家と同じ「丸ニ引両」である。なぜ、瓦の文様に家紋ではなく、「山文」を採用したのであろうか。現在のところ、確たる結論を持ち合わせていないが、京で初めて生産されたのであろうから、京の政治状況が反映したものと考えられる。当時、室町幕府の最後の将軍であった足利義昭はまだ存命であり(1597年死去)、天正15年(1587)に京に帰還したのち、翌年に将軍職を辞し受戒したものの、秀吉から山城国填島に1万石を認められ、京や大坂を住まいとしていた。そのような状況で瓦の紋章を選択する際、足利家以外に「丸ニ引両」の紋を瓦に採用することはありえなかったと推測される。足利義昭は豊臣政権で重要なポジションを占めていたわけではないが、室町幕府将軍家の家紋と同様の紋章を最上家の瓦に採用することを避けたい意図が豊臣政権にあったことは十分考えられる。
 また、京都でも出土しているのであるから「山形」「山形城」という地名を示しているわけではない。最近の文献史学の研究で、特に豊臣政権時代に最上義光は「山形殿」と称されていることが知られているが、自らの呼称から「山文」の文様の採用に至ったのであろう。山形城の瓦出現期の様相は、当時の政治状況を色濃く反映しているのである。

■執筆:齋藤 仁(山形市教育委員会社会教育青少年課主幹/文化財保護担当)「歴史館だより25」より

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2018.09.17:最上義光歴史館

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