最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼「『鮎貝謀叛事件』の再考―大沢氏の論考に寄せて」 胡 偉権
「鮎貝謀叛事件」の再考―大沢氏の論考に寄せて
去年、歴史博物館青葉城資料展示館の大沢慶尋氏は「歴史館だより」22号および当館のホームページで、天正十五年十月のいわゆる「鮎貝謀叛事件」について再検証を行った上、御見解を示した(注1)。
大澤氏は、伊達氏の正史『貞山公治家記録』における「鮎貝謀叛事件」の記事を同時代の史料を以て検討したところ、次の見解を示した。すなわち、
@、政宗は義光が関与するとの認識を持っていることが確認できないこと
A、「義光関与」は『貞山公治家記録』編さん者の見解であり、義光が関与しない可能性が高いこと
B、事件自体は政宗が鮎貝氏を完全家臣化したいと推測されること
結論を先に言っておけば、筆者は大沢氏の見解にほぼ賛成したい。だが、Aについてはもう少し考える余地があると思われる。したがって、本稿はAを中心に、大沢氏の見解を踏まえて、自分なりの見解を補足として述べさせていただきたい。
まず、Aに関して大沢氏は義光の関与疑惑を、あくまでも『貞山公治家記録』の編さん者の発案と指摘している。しかし、もう一度『貞山公治家記録』の関連部分を見てみると、やや気になるところがある。実際、「鮎貝謀叛事件」が勃発したのは天正十五年十月だが、それについて『記録』では、その前月の九月は二十六日が最後として、その後に続く十月の記事の前に「此後日記不伝」と書かれている。(注2)
「日記」とは『伊達日記』(『伊達家日記』とも)で、それは天正十五年から天正十八年四月まで伊達政宗の行動とその周辺を誰かがの手によって簡単に記録される公的記録で、のちの『貞山公治家記録』の編纂における重要な参考資料の一つであり、特に天正期の政宗の行動を解明する根本史料といえる(注3)。さて、『日記』における天正十五年十月から十二月までの記事は書かれていない理由は不明である。肝心な「鮎貝謀叛事件」はちょうど同年十月の出来事だから、やや残念である。
『日記』が伝われないというならば、『記録』は『日記』以外の史料に基づいて「鮎貝謀叛事件」を記録することは間違いない。それでは、『記録』の編さん者は何を依拠にして「鮎貝謀叛事件」を書き綴ったのだろうか。そこで、大沢氏は『記録』以外の史料を博捜して、その真相を突き止めたところ、「鮎貝謀叛事件」を語る史料は四点あると指摘している。すなわち、
A、天正十五年十月十四日、伊達五郎(成実)宛、伊達政宗書状(『仙台市史 資料編』I(以下「仙」)、一四三)
B、天正十五年十月十四日、桜田兵衛資親宛、伊達政宗書状(仙一四一)
C、天正十五年十月十四日、後藤孫兵衛信康宛、伊達政宗書状写(仙一四四)
D、天正十五年十一月四日、宮沢元実宛、伊達政宗書状写(仙一五〇)
実は、その以外に同日の史料はもう一点ある。それは湯目又次郎景康宛伊達政宗書状写(『政宗君治家記録引証記』所収文書)である。同史料は『記録』にも引用され、文意は上記の4点とはほぼ同じく、義光の関与が明記されていないものである。ここでは省略させていただく。
四点の書状の中、B以外は『記録』にちゃんと引用されているから、編さん当時は実物の確認が行われたと見てよく、「鮎貝謀叛事件」が本当にあったことも疑う余地がない。
しかし問題は、もし大沢氏が指摘した通り、上記の史料を見る限りでは、いずれも「義光関与」を明記することが見られないとすれば、『記録』の編さん者は何をもって、「最上義光ノ勧メニ依テ叛逆ノ企アリ」との認識をもつようになったのだろうか。そこで、注目すべきは『成実記』である。
『成実記』(注3)は周知の通り、政宗の重臣である伊達成実が書いた政宗一代記で、のちに内容を整理して改めて『政宗記』(全十二巻)(注4)を書いたのである。また、『成実記』は覚書の形で、小見出しが設けられていないが、それに対して後に成立した『政宗記』各巻には小見出しを設けられている。実際、『記録』での「鮎貝謀叛事件」の記事は、『政宗記』巻三の「最上大崎使者之事」と『成実記』の相当部分とは極めて酷似するのである。
読者の皆さんに理解しやすくするために、原文を書き下し文に改め、文体を片仮名から平仮名に変えて掲載しよう。
「十四日庚午、鮎貝安房宗重入道日傾斎より、嫡子鮎貝藤太郎宗信連々某と不和の上、最上殿義光の勧めに依て叛逆の企あり、某、頻に異見を加ふといえども承引せず、今度既に城に拠て兵を起さんと仰出さる。時に老臣等相議して、最上より加勢もあるべし、殊には藤太郎外にも最上に内通の者あるも計りがたし、兎角御出馬の儀は様子を御覧合せられ、しかるべしと言上す。各相議する所、其理ありといえども、左様に遠慮せば向後米沢を出玉ふ事は成間敷と思召さる。此節鮎貝に於て是非を極らるべしと仰られ、伊達碩斎・富塚近江・五十嵐蘆舟斎を御城の留守居とし、即時に鮎貝城に御出馬あり、御人数急に町曲輪に押詰め、五十余人討捕り、所々に火を放て攻戦ふ…藤太郎最上へ早馬を以て頻に加勢を乞けれども、一騎も来らず、藤太郎籠城叶わずして、此夜潜に城を出て逃奔す、鮎貝城に於て逆徒数百人を撃殺す」
そして、『記録』のかかる部分は既に大沢氏の論考で現代語訳して掲載されたため、便宜的に大沢氏の訳文を引用させていただきたい。
『鮎貝宗重入道日傾斎より「嫡子宗信とずっとずっと私は不和の上、最上義光の勧めで(伊達政宗に対する)謀反の企てがあった。私はしきりに意見したが聞き入れなかった。このたびすでに鮎貝城に拠って兵を起こそうとした。私(宗重)は高玉(白鷹町)へ退出した。すみやかに宗信を退治してほしい。」と言上してきた。(政宗公は)時刻を移さずすぐに誅伐すると仰せ出だされた。その時、老臣らは協議して「最上より加勢があるだろう。特に宗信の他にも(伊達家中に)内通の者があるかもしれない。」と政宗に言上した。』
事件の経過は大沢氏の論考では既に詳しく整理されたため、ここでは略するが、要するに、鮎貝父子の不和→義光の扇動によって宗信挙兵→政宗による宗信討伐という流れである。義光の関与疑惑を絞ってみると、『記録』では明確に「義光の勧めによって」とあり、そして伊達家家臣たちは、最上からの加勢と家中にほかの内通者がいるかもしれない、という理由で政宗の出馬に懸念したという。結局、政宗の快進撃によって、鮎貝城が落城させられ、宗信は義光に援軍を要請したが、義光からの援軍は一切来なく、その後、籠城もできない宗信は城を後にして逃亡したという。
一方、『政宗記』と『成実記』では、「鮎貝謀叛事件」をその翌十六年大崎の乱の関連記事として綴られているが、両者は「鮎貝謀叛事件」を天正十五年三月十三日の出来事とする。それは上記の史料から考慮すると、誤りといえる。ただ、鮎貝宗信の謀叛経過について『政宗記』、『成実記』を見てみると、『記録』とはほぼ相似するとはいえ、微妙なズレも見受けられる。
まず、『政宗記』の部分では、
「(義光は)米沢と最上の境に、鮎貝藤太郎と云し者居たりけるを、義顕(光)語らひ、天正十六年三月十三日に右の藤太郎伊達へ向て手切をなす。政宗時刻を移さず退治せんと宣ふ。家老の面々「義顕(光)手の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略無嫌疑、一左右を聞玉ひしかるべし」と申す。「各申処は理りなれども、打延けること如何」の由にて、已に馬を出さるべきに相済けり。然る処に鮎貝、最上より加勢を頻りに望と云へども、如何ありけるやらん一騎一人も助け来らず、剰へ政宗出馬のこと藤太郎聞及ぶ、則最上へ引除けり。是に付て米沢中弥静謐にて候事」
そして『成実記』では、
「此砌米沢ヘノ事切ヲ被思召、最上境ニ鮎貝藤太郎ト申者被仰合、天正十五年三月十三日、鮎貝手切仕候。政宗公被聞召、時刻ヲ移候ハバ成間敷候間、即御退治可被成由被仰出候。家老衆被申上候ハ、最上ヨリ加勢可有之候。其上又モ最上ヘ申寄候衆可在之条、様子御覧被合、御出馬可然由申サレ候ヘドモ、左様ニ候ハバ、米沢ヲ御出候事成マジク候間、是非鮎貝ヲ御退治可被成由御意候而御出馬候處、最上ヨリ一騎一人モ御助無之、鮎貝最上ヘ加勢乞候ヘドモ不被相助上、政宗公御出馬候被承、則最上ヘ引除被申候間、長井無子細候。」
『政宗記』、『成実記』と『記録』の内容が酷似するが、共通するのは以下三点である。
(イ)、義光の扇動によって鮎貝宗信が挙兵すること
(ロ)、宗信は義光に援軍を要請したが、来ないこと
(ハ)、負けた後、宗信は最上へ逃亡すること
むろん、細かい相違も見受けられるものの、『記録』は前掲した幾つの書状のほか、『成実記』を底本として、『日記』にない「鮎貝謀叛事件」を記録したことはほぼ間違いないだろうが、ここで注意すべき点が二点あげられる。
まず一つ目は、三者から見た伊達家家臣たちの意見の相違である。『記録』と『成実記』はほぼ同じで、義光については特に言及しないが、『政宗記』は『成実記』を敷衍した上、さらに「…家老の面々「義顕(光)手の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略無嫌疑、一左右を聞玉ひしかるべし」と申す(義光は手が悪い大将で、隣国に対してどんな手段を問わないものは明白だから、お知らせをお聞きになってよいでしょう)」となる。
実際、伊達成実の義光評は芳しくなく、『成実記』では、「最上義顕(光)公は、政宗公の伯父ですが、輝宗公御代の時も度々戦争があった。しかし近年は、別して(政宗とは)仲良くなった。ところが、義光公は、家内の家臣、兄弟まで両人に切腹させた手ごわい人だから、油断はできない」と言いつつ、さらに、「諸大名と手を組んで、伊達家に戦争を起こし、長井(最上領と接する伊達領)を奪い取るつもりである」とすら摘発している。
それのみならず、義光に対する悪意や懸念のような記事は同書では随所見られる。たしかに、最上と伊達の関係は不安定の状態が多いから、『成実記』などに見られる義光評は、このような両家の関係を意識する成実の個人的感想か、あるいは成実が代表する一部の伊達家家臣の義光に対する総意的な見方かもしれないが、上記の義光が伊達領を狙う告訴はやや誇張とはいえ、成実らが義光に対する不信感と警戒心が如実に吐露している。
そして二点目、鍵となる「鮎貝謀叛事件」の義光関与疑惑についてである。『政宗記』、『成実記』と『記録』はいずれもそういうふうに記されているが、大沢氏の列挙した史料では、義光の関与がまったく言及されていない。そして『政宗記』、『成実記』と『記録』は同じく宗信が最上へ逃亡とするが、前記の書状Dで政宗は逃亡した宗信が行方不明となったという。その後、『記録』編さん者が何らやの情報をもって宗信が最上へ逃亡と確認したか、あるいは『政宗記』、『成実記』を依拠にしてそのまま引用してしまったかと思われる(注6)。
そこで、最近発見された史料から重要な情報が示された。(注7)
鮎貝、大ゟ引除候間、則、彼城江打入候様躰、内々自是可相理候処、脚力越候間、顕之候、即時ニ隙明候事、於各々も可心安事察入候、扨々、其境□弥々静謐之由、肝要候、委曲者、自米沢可申遣候、謹言
十ノ十五日 政宗(花押)
小国蔵人殿
(〈天正十五年〉十月十五日付小国盛俊宛政宗書状)
これは、去年『市史せんだい』が紹介された政宗史料の一つである。ちなみに、宛先の小国蔵人盛俊は時の中山城主(現・上山市中山)で、中山城は鮎貝城と同じく伊達氏が最上氏に備える境目の城である。
さて、この史料の日付は「十ノ十五日」とあり、そして鮎貝がみられるから、「鮎貝謀叛事件」当時の書状に違いない。傍線部分の文意はやや難解ではあるが、「鮎貝(宗信)は「大」から逃げたから」、政宗は「すぐ彼の居城(鮎貝城)に攻め入れた」と言った。問題は、「鮎貝、大ゟ引除候」の「大」とは何か。宗信の通称は藤太郎だから、「鮎貝大(=太郎)ゟ引除候」と読めば、「宗信は逃げた」と理解できる(大沢氏のご教示による(注8))。
一方、もし「大」はどこかの地名であれば、宗信は「大」から逃げたということになる。ただ、「大」をどう取ればよいかは、今後の課題とさせていただく。いずれにせよ、史料を読むと、十月十五日当時、宗信がすでに逃げたことが確かであり、そして当時、彼が最上方面に逃げたかどうかは、政宗にはわからないのである。
つまり、事件から二週間経った後、書状Dで「其夜鮎貝事不知行方相走候」(十月十四日の夜、鮎貝(宗信)は逃げて行方不明です)と見られたように、この史料から読むと、騒乱を未然に鎮圧した伊達氏は、宗信の行方を未だ把握しえていなかったことが明らかである。
また、先ほどの10月15日付の書状に政宗はその続き「内々(あなたに鮎貝のことを)知らせるつもりだが、(あなたから)飛脚が来たので、(鮎貝のこと)を打ち明けよう。既に落ち着いたから、皆々も安心するだろう(内々自是可相理候処、脚力越候間、顕之候、即時ニ隙明候事、於各々も可心安事察入候)」と盛俊に告げた。鮎貝氏の騒動は伊達氏の境目を動揺させた様子がうかがえよう。
とはいえ、同時期の義光の動向を見ると、同年10月末には庄内の大宝寺氏を滅ぼした直後であり、その前に大宝寺氏との対立をめぐって、義光と政宗は関係悪化となりつつあったが、その間、双方は言葉の応酬にとどまり、さらに悪化する兆候が見られない。また、義光からみれば、庄内の始末は完全に落ち着いておらず、さらに同年末に、自ら庄内へ向かったため、わざと伊達氏を挑発する理由はないと考えられる。
いずれにせよ、現在のところ、確実に行動した形跡も確認できないため、そこに書かれる伊達家臣たちの発言が本当にあったとしても、あくまでも義光への不信に基づいた疑惑に過ぎず、決定的根拠にはならない。つまるところ、伊達家家臣たちの疑心暗鬼と解して妥当であろうし、『政宗記』、『記録』の底本である『成実記』は成実が老年の時に書き綴られたもので、多少の誤記・覚えの相違がありうると考えられる。
結局、『成実記』の影響をうけて、「鮎貝謀叛事件」に義光が関与した疑惑は仙台藩時代に形成し、『記録』の編さんによって、仙台藩の公式見解では定説となってしまったのである。
蛇足であるが、事件が落着した翌十六年四月に政宗の命令により、鮎貝城と近隣の荒砥城とともに普請が行われた。その前後には国境において伊達勢と最上勢との小競り合いが断続的に行っていたから、普請自体は最上へ警戒するためと見てよいが、それは「鮎貝謀叛事件」とは関係なく、同年の庄内をめぐって義光と対立した本庄繁長と連携した政宗は、大崎家内紛により、義光との関係が一層悪化したため、義光をけん制する方策として、鮎貝城と荒砥城を新たに普請したと考えてよいだろう。
■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)
《注》
(注1) 大沢慶尋「再検証『鮎貝宗信謀反事件』〜政宗・義光の不和発端説の誤りを正す〜」http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=387678、のちに山形郷土史協議会の『研究資料集』第37号「天正十五年鮎貝宗信謀叛事件〜伊達政宗・最上義光不和発端説の検証」に改題、山形郷土史協議会の『研究資料集』第37号、2016年4月10日刊
(注2) 『貞山公治家記録』巻二、天正十五年九月二十六日条 平重道 編、宝文堂出版 一九六七年
(注3) 『伊達史料集(下)』第二期戦国史料叢書11、小林清治 校注、 人物往来社 一九六二年
(注4) 『群書類従』第拾四輯【巻三百九十】
(注5) 『伊達史料集(上)』第二期戦国史料叢書11、小林清治 校注、 人物往来社 一九六二年
(注6) 同書状では、政宗は宗信が「逆意を企てる」と摘発したが、そもそも、「逆意」を最上に内通するとまで解することできないし、湯目景康宛の政宗書状では、宗信が「様々抱置き」しているとある。おそらく当時の宗信は既に籠城する構えを見せているだろう。当時の風習では、家臣が無断に籠城することは謀叛と等しく、まさに「逆意」そのものだから、政宗が言うのは籠城のことではないかと考えられる。
(注7) 『市史せんだい』vol.25 史料紹介 伊達政宗文書・補遺(九)・補180号
(注8) 大沢氏は注1の『研究資料集』論文にて同じく宗信謀叛事件と『成実記』との関連性を指摘されたので(同資料集24ページ、注〔11〕)、併せて参照されたい。
《参考資料》
政宗記(巻三)(人物往来社 戦国史料叢書10 「伊達史料集上」)
…斯くて義顕は政宗母儀方の伯父にておはせども、輝宗代には度々軍なりしが、政宗へは和睦を入、近頃は懇にておはす。しかりといえども我家の大身を多く滅ぼし、或は御子両人迄死罪に行ひ、以の外なる悪大将なり。されば政宗四本ノ松・二本松を取給ふに仍て、佐竹・会津・相馬・岩城・白川・須賀川、各伊達へ敵対し給ふ故に、義顕近所と云ひ互に時を見合せ、右の大将へ一和ありて、伊達へ戦、在城の米沢を日来のぞみ給ふ処に、況や今度大崎にて伊達の勢とも利なくして、人質の泉田安芸を、義隆より最上へ遣はし給へば、尚も政宗へ手切の為に、米沢と最上の境に、鮎貝藤太郎と云し者居たりけるを、義顕語らひ、天正十六年三月十三日に右の藤太郎伊達へ向て手切をなす。政宗時刻を移さず退治せんと宣ふ。家老の面々「義顕手の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略無嫌疑、一左右を聞玉ひしかるべし」と申す。「各申処は理りなれども、打延けること如何」の由にて、已に馬を出さるべきに相済けり。然る処に鮎貝、最上より加勢を頻りに望と云へども、如何ありけるやらん一騎一人も助け来らず、剰へ政宗出馬のこと藤太郎聞及ぶ、則最上へ引除けり。是に付て米沢中弥静謐にて候事。
伊達成実記(群書類従. 第拾四輯【巻三百九十】)
義顕公政宗公伯父ニテ候トモ、輝宗公御代ニモ度々御弓矢ニ候。然共近年ハ別而御念比ニ候。義顕公大事ノ人ニテ洞ニテ大臣兄弟両人共ニ切腹被仰付候、政宗公二本松・塩ノ松御弓矢強、佐竹・会津・岩城・石川・白川迄御敵ニ候間、此時右ノ諸大名衆仰合サレ、伊達へ弓矢ヲ取、長井ヲ御取可被成由被思召候處、結句大崎ニテ伊達衆負、泉田安芸守ヲ最上へ可被相渡ニ候間、此砌米沢ヘノ事切ヲ被思召、最上境ニ鮎貝藤太郎ト申者被仰合、天正十五年三月十三日、鮎貝手切仕候。政宗公被聞召、時刻ヲ移候ハバ成間敷候間、即御退治可被成由被仰出候。家老衆被申上候ハ、最上ヨリ加勢可有之候。其上又モ最上ヘ申寄候衆可在之条、様子御覧被合、御出馬可然由申サレ候ヘドモ、左様ニ候ハバ、米沢ヲ御出候事成マジク候間、是非鮎貝ヲ御退治可被成由御意候而御出馬候處、最上ヨリ一騎一人モ御助無之、鮎貝最上ヘ加勢イ乞候ヘドモ不被相助上、政宗公御出馬候被承、則最上ヘ引除被申候間、長井無子細候。
2016.08.10:最上義光歴史館
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