最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼「義光はなぜ「虎将(こしょう)」と呼ばれてきたのか」 胡 偉権
「義光はなぜ「虎将(こしょう)」と呼ばれてきたのか」
御存知の通り、最上義光は後世に「虎将」と呼ばれている。しかし、そのきっかけは何だっただろうか。
江戸時代晩期の儒者・塩谷宕陰に「山形従役詩」という詩集の中に義光を偲ぶ「雑詠(二首)」がある。そこに「散歩時尋虎将蹤」(散歩して時に虎将の蹤を尋ぬ)と、義光のことを「虎将」と称するわけである。その理由は、義光の官途と関係するものである。
義光は慶長十六年(一六一一)三月に従四位上左近衛少将に叙任された。左近衛少将とは内裏内の警衛、警固を担当する令外の官、いわゆる「六衛府」の中の左近衛府の次官である。むろん、戦国時代になると、官途の実際的意味を持たず、単なる名誉的なものに過ぎないというまでもない。
さて、この「左近衛少将」と「虎賁郎将」との関係といえば、「虎賁郎将」は「左近衛少将」の「唐名」なのだ。「唐名」とは律令制の官職・部署の名前を、同様の職掌にあたる中国の官称にあてはめたものである。
「虎賁郎将」はもともと「虎賁中郎将」の略称であり、その起源は少なくても中国の西周時代までさかのぼることができる。その後、前漢の元始元年(西暦一年)に官職として定着されるようになった。
もともと、「虎賁」とは古代中国において勇士の代名詞であり、「虎賁」の語源を尋ねると、そもそも「賁」とは「奔る」、「勇む」意味で、「虎賁」とは虎が獲物を猛襲する姿を指すものである。後に戦場で敵を果敢に攻撃する兵士の姿を、虎が獲物を襲う雄姿に喩えて転用されるようになったのである。
そして、官職としての「虎賁郎将」の由来を調べれば、周王朝の開国功臣・周公旦(しゅうこう・たん)の著書『周礼』(しゅうれい)に初めて「虎賁」の語が見られる。それによると、遥かなる夏の時代に、「虎賁氏」という官職がすでに存在しており、その職務を簡単にまとめると、以下の内容である。すなわち、
(1)王様が親征、あるいは外出の時、王様に扈従し、その安全を守ること
(2)王様が王宮にいる時は、王宮の内外を警備すること
(3)王様が崩御した後、万が一に備えて、葬儀が終わるまで王宮への各口を警戒し、王様の棺が納められた車を御陵に着くまで守ること
(4)崩御のお知らせを各地に伝達する使者と同行すること
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『周礼』の類本の目録に「虎賁氏」が見られる
『周礼』の記事を裏付ける史料はほとんどないため、その真偽を問うことができないが、前漢の平帝は従来の王宮の宿衛部署である「期門郎」を「虎賁郎」に名を改め、その長官として「虎賁中郎将」を設けた。それをきっかけに、「虎賁中郎将」は官職として歴史に登場するようになり、唐の時代まで存在していた。
このように、古来の「虎賁氏」と後の「虎賁郎将」の職務は王様の身柄を守ることであり、いわば王様の親衛隊、精鋭中の精鋭部隊を引率する筆頭といえよう。また、「虎賁中郎将」とも関係する「虎賁」は漢の時代以降、「羽林」(うりん)と共に、帝国の最精鋭部隊の代名詞として史書に随所に見られる。やや煩わしいかもしれないが、「虎賁中郎将」は官職の名で、「虎賁」はそれに従える兵士、あるいは「虎賁中郎将」その人を指す呼称、とお分かり頂けば幸いである。
したがって、「虎賁中郎将」も「左近衛少将」も、王様、日本といえば天皇の警護役を担当する役職であるため、左近衛少将に叙任される義光も当然、日本版の「虎賁中郎将」となる所以である。
また、上述したように、「虎賁」は勇猛の兵士を意味するから、その長官の「虎賁中郎将」最上義光は、あの長谷堂の戦いで最上勢を率いて、撤退中の上杉勢を追撃し、敵の侵略から領国を守るために奮戦することを偲べば、まさに雄々しく獲物を猛襲する虎ではなかろうか。
蛇足だが、従四位左近衛少将は最上氏歴代当主の中でも最も高い官途なのである。そのためか、義光は「左近衛少将」に叙任されてから慶長十九年に没するまで、しばしば「少将出羽守」、「少将」を署名として使っていた。彼本人もよほど気に入ったようだ。
■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)「歴史館だより23」より
2016.06.15:最上義光歴史館
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