最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼「最上義光のもう一人の妻―義康、家親の生母を考えるに」 胡 偉権

「最上義光のもう一人の妻―義康、家親の生母を考えるに」 
 
 本稿は最上義康と家親の生母について考察してみることとしたい。
最上氏諸系図(注1)では、最上義康は義光の嫡男で天正三年(一五七五)に生まれた。一方、家親は次男として天正十年(一五八二)に生まれた。これは諸系図では一致するので、特に問題ない。彼らの兄弟については、諸系図では五人いることが共通している。すなわち、長男の最上義康、二男の家親、彼らの弟は清水光氏(後述)、山野辺光茂(のちに義忠)、上山光広(義直とも)と大山光隆である。一方、妹は野辺沢(延沢)光昌室、氏家国綱室、東根親宜室、そして豊臣秀次側室の四人が確認される(注2)。
 今回の検討対象となる二人の生母はどうであろか。従来、義光の正室は大崎氏で、側室は二人居り、すなわち天童氏と清水氏といわれている。そして、義康と家親の生母は同じとされながら、義光正室の大崎氏とも次の正室の天童氏ともされている。
 『山形市史史料編1最上氏関係史料』(以下は『市』と略す)で所収される諸系図では、義康の生母が明記されるのが以下4つである。すなわち、

@寛政重修諸家譜最上氏系図、「母は某氏」(注3)
A宝幢寺本最上家系図、「母は天童四位少将頼貞女」(家親と同じ)(注4)
B菊地蛮岳旧蔵最上出羽守義光系図、「少将殿本奥の腹の子也」(注5)
C菊地蛮岳旧蔵最上系譜、「母は天童四位少将頼貞女」(家親と同じ)(注6)

 @は単に「某氏」とあるのみで、より具体的に明記するのはABCであるが、上述したように、義康の生母は大崎夫人と天童夫人との二説が存在することが一目瞭然である。
 さて、詳しくみると、AとCは同じく義康の生母を天童頼貞の娘とし、家親とは同腹の兄弟であると記されているのに対して、Bはやや曖昧ではあるが、「少将殿本奥」の子となっている。問題はBの「少将殿本奥」は誰なのだろうか。
 彼女たちに関してはすでに故川崎浩良氏(注7)、松尾剛次氏(注8)、片桐繁雄氏(注9)の考察があるので、詳しくはご参考いただきたい。ここでは二人の母を絞って若干検討をしてみたい。
 そもそも、大崎夫人については、生年、そして義光の正室としていつ輿入れしたかは不明であり、その出自については大崎義直の娘という説があるが、確証はまったくなく、定かではない(注10)。もしそれが正しいというならば、義光と大崎義隆とは義兄弟関係となる。
 『最上源氏過去帳』(以下は「過去帳」と略す)では彼女を「山形殿内室、奥州大崎家女」として文禄四年(一五九五)八月十六日に死去し、法名は「月窓妙桂大禅尼」である(注11)。大崎夫人を義光の正室としているのが『東大史料編さん所架蔵影写本最上家譜』のみで、ほかに、『光明寺本最上家系』注(注12)と前掲Aの『宝幢寺本最上家系図』は義光の正室を天童夫人としている。つまり、最上家各系図では大崎夫人の存在をあまり知らないことが窺える。
 一方、片桐氏の紹介によれば、義光の正室として知られる天童夫人は義光の三男清水光氏を生み、天正十年(一五八二)で死去したという(注13)。それ以外、彼女については一切わからない。
 果たして大崎夫人は義康の生母かどうかは確証が欠いているが、義康が生まれた天正三年は「最上の乱」の翌年であり、その時点、対戦相手の天童氏との関係はまだ険悪らしい。それにしたがって、片桐氏は「義光の長男義康が生まれたのが天正三年であるから、正室は、これ以前に嫁いだはずである。それが天正初めのこととすれば、山形は天童・中野グループと激しい抗争を繰り広げていた真っ最中となる。はたして天童家から入ったのかどうか」と、天童氏の女を対立状態にもかかわらず、正室として迎え入れることに対して疑念を呈している(注14)。
 たしかに、義光と義守との内紛は少なくとも元亀二年から天正二年まで断続的に続いていたので、その間に義光が敵の天童氏の女を正室とするのはまったく不可能とはいえないがものの、やはり天正二、三年の政治情勢から見ればやや考えにくい。
 また、系図Bの「少将殿本奥」についても、系図自体の検討は要るが、上述した天童夫人はすでに天正十年に死去したとされ、大崎夫人と見られる「月窓妙桂大禅尼」は十二年後の文禄四年に死去したのであり、系図Bにある「本奥」とは「本妻」、「正室」という意味だから、より長生する大崎夫人を指すのが妥当ではなかろうか。
 ところが、注目すべきは「過去帳」ではもう一人の女性がいる。それは「家親実母」という付記があり、法名が「高月院殿妙慶禅定尼」(以下は「高月院殿」と略す)とある女性である。家親については次節で触れることにして、ここは「高月院殿」を注目したい。
 この「高月院殿」は今までの通説では義康と家親の生母であり、大崎夫人と同一人とされているが、大崎夫人=「高月院殿」であるかどうかは片桐氏も明確に示していない(注15)。「過去帳」では、この女性は慶長三年に死去したと記されており、大崎夫人のこと「月窓妙桂大禅尼」の死後三年だった。とすれば、大崎夫人と「高月院殿」は同一人であることはありえない。
 もし「高月院殿」は大崎夫人とは別人とすれば、当時すでに他界したはずの天童夫人はもちろん当てはまらないし、三人目の妻である清水御前は元和八年(一六三八)に六二歳で死去したので、彼女も当てはまらない(注16)。
 「過去帳」が言うように「高月院殿」は本当に家親の実母で、大崎夫人とは別人とすれば、義光の妻室は少なくとも四人いることになる。それでは、「高月院殿」は誰だろうか。
 まず、「高月院殿」は寒河江に葬られ、そして家親は一時寒河江と名乗っていたことから、「高月院殿」が寒河江氏の出身の女性という可能性があろう。なぜなら、「高月院殿」が大崎夫人であれば、家親が藩主になっても山形に葬られないことは考えにくいからである。
 現存史料では義光の妻室の中に寒河江氏の女がいたという記録はないが、その可能性を示唆するものが残される。それが「安中坊系譜」である。その中で寒河江兼広の項では、下記のよう書かれている。(注17)

永禄三年庚申三月、最上義光率兵攻寒河江(中略)後義光和解而以長男義康為兼広聟、大坂秀頼ニ仕、兼広無男子、有女子二人、一高基、二義康妻也

 永禄三年(一五六〇)には、むろん義光はまだ家督を継いでいないので、誤記であるが、「義光」を義守に、「義康」を義光に置き換えればどうであろうか。
 無論、天正二年以前義守の動向はほとんどわからない状態であり、寒河江氏を攻めた記録も残されていないから、右史料の信憑性が疑わしくなる。
 しかし、同系譜によれば、兼広は天文十五年に寒河江家を継いだらしく、史料では兼広が最後に見られるのが永禄四年(一五六四))である(注18)。一方、「はとう物の覚」によれば、それを継ぐ寒河江尭元(注19)は永禄十一年から元亀元年の間(一五六八〜一五七〇)に御代始りしたらしいので(注20)、義康が兼広の婿であることはありえないものの、義康でなく、義光であれば矛盾が問題なく解消することになる。それが正しいならば、兼広の娘が義光の妻となり、家親を生んだ「高月院殿」ではなかろうか。
 また、大崎夫人の法名は院号がないのに対して、この「高月院殿」は院号が付かれるのは後に家親が藩主になり、生母を尊敬するためであろう。とすると、せめて家親は大崎夫人の子ではないから、「高月院殿」の側で「家親実母」と明記したのも理解できよう。それが正しければ、義康の生母は大崎夫人で、家親の生母は「高月院殿」であるという可能性があれば、二人とも「高月院殿」の子である、ということも別におかしくない。
 最後に、寒河江では義康が寒河江尭元の養子であるという伝承は根強いが、上記の「安中坊系譜」では尭元の妻は兼広の娘で「高月院殿」の姉となり、義康が「高月院殿」の子とすれば、息子がない尭元の養子となることは不自然ではない(注21)。一方、通説のように血筋とは関係なく、尭元は義康を養子とし、「高月院殿」の子で、寒河江の血筋を汲む家親が後に寒河江と名乗ったことも特に違和感がない。
 いずれにせよ、上記のA、Cが言う天童夫人は義康と家親の生母である可能性が低く、そして、明らかな確証がないものの、義康の生母は大崎夫人か「高月院殿」のいずれかと推定したい。
 以上、憶測の部分が多いことは否めないが、従来『最上源氏過去帳』と諸系図の比較検討はいまだ数少ないため、本稿はその試みとして一つの仮説を立てることで、最上義光の子息たちの関係のみならず、寒河江氏と最上氏との関係を再考する糸口と期待されたい。
■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)

(注1) ここでいう諸系図は『山形市史史料編1最上氏関係史料』一九七三年(以下は「市」と略す)で掲載されるものである。
(注2) しかし、義康の兄弟の中では、家親以外はいずれも関連史料がきわめて少ないため、不明点が多く、未だそれぞれの実態を把握できないのが実情であるので、今後の課題としたい。
(注3)『市』三二頁
(注4)『市』五五頁
(注5)『市』六五頁
(注6)『市』六九頁
(注7) 『浩良史話集』川崎浩良全集四 郁文堂書店、一九六四年
(注8) 『山形学―山形の魅力再発見』山形大学都市・地域学研究所、山形大学出版会、二〇一一年、初出は二〇〇三年平成十五年度・山形大学公開講座報告集
(注9) 片桐繁雄「最上家をめぐる人々」、最上義光歴史館公式ホームペイジで連載される(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=list&c=951)。以下同シリーズは「最」+番号で略す。
(注10) 伊藤卓二「大崎義隆の墓」『奥州探題大崎氏』所収、高志書院 二〇〇三年
(注11)『市』八六頁
(注12)『市』四八頁
(注13) 片桐繁雄「最A」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=110860)
(注14) 同右
(注15) 片桐繁雄「最M」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=125693)
(注16) 片桐繁雄「最I」(http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=111190)
(注17)『寒河江市史資料編』大江氏関連史料 一〇五頁、以下は『寒』番号と略す
(注18)『寒』三六八頁 宝林坊文書二号
(注19) 寒河江尭元は実名が高基、隆基などの異説があるが、寒河江氏当主の実名
には「元」、「広」の通字が使われるから、「隆基」ではないと考えられる。慈恩寺に見られる「大江ノ尭元」にしたがって、小稿は「尭元」と統一したい。
(注20) 『寒』三七二頁、広谷常治氏所蔵文書二号
(注21) 寒河江氏一部の系譜では、

2015.12.26:最上義光歴史館

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