最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼「再検証『鮎貝宗信謀反事件』〜政宗・義光の不和発端説の誤りを正す〜」大沢慶尋
「再検証『鮎貝宗信謀反事件』〜政宗・義光の不和発端説の誤りを正す〜」
「鮎貝(白鷹町鮎貝を中心とする地頭)のことは、(政宗自らが米沢城から)出馬したので、直ちに(当主鮎貝宗信を)自落(他氏領国への落ち延び)させる。早々に(鮎貝)城中へ打ち入るので詳しくは述べない。」。現在いうところの「鮎貝宗信の政宗への謀反事件の勃発」である。その慌ただしい状況下で認められた天正十五年「十月十四日、伊達五郎(成実)宛、伊達政宗書状」(図1 仙一四三)中の記載である。
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図1 伊達政宗書状(竹田 秀 氏所蔵)
この事件を『貞山公治家記録』天正十五年十月十四日の条は、『鮎貝宗重入道日傾斎より「嫡子宗信とずっとずっと私は不和の上、最上義光の勧めで(伊達政宗に対する)謀反の企てがあった。私はしきりに意見したが聞き入れなかった。このたびすでに鮎貝城に拠って兵を起こそうとした。私(宗重)は高玉(白鷹町)へ退出した。すみやかに宗信を退治してほしい。」と言上してきた。(政宗公は)時刻を移さずすぐに誅伐すると仰せ出だされた。その時、老臣らは協議して「最上より加勢があるだろう。特に宗信の他にも(伊達家中に)内通の者があるかもしれない。」と政宗に言上した。』と記す。このように、元禄期編纂の伊達家の正史『貞山公治家記録』は、この鮎貝父子の一件を、
⑴伊達政宗に対する鮎貝宗信の謀反。
⑵最上義光が鮎貝宗信に勧めたことによる謀反。
としており、この説は現在定説となっている。
さらに『貞山公治家記録』は、「乱を武力鎮圧し鮎貝宗信を自落させた後、政宗は鮎貝日傾斎(宗重)の忠義の志に感謝し、柴田郡の内に采地を与え、二男の七郎宗益を家督に命じ、もとのように伊達家中では一家の上座においた。」と続ける。
⑶政宗が事件後、鮎貝氏をいかにも手厚く処置した。
という表現である。
果たして、⑴・⑵・⑶は真実なのか。以下、後世の編さん書ではなく、確かな同時代史料のみから検証していこう。
同じく事件勃発の天正十五年「十月十四日、桜田兵衛資親宛、伊達政宗書状」(仙一四一)には次の記載がある。
➀鮎貝の地において、父で隠居している鮎貝宗重と当主宗信父子の間が取り乱れ、隠居している宗重が鮎貝から高玉へと除かれ、難しい事態となっているので、政宗自身今日下長井へ出陣し下知をもって静める。
A最上氏と伊達氏の境目のことなので、心得ておくように。
➀より、鮎貝父子の紛争に、政宗が自らの意志で軍事介入したことがわかる。Aより、政宗は軍事進攻する鮎貝の地が最上領との境目であることから警戒していることがわかる。
さらに、同日の天正十五年「十月十四日、後藤孫兵衛信康宛、伊達政宗書状写」(仙一四四)には次の記載がある。
B鮎貝親子(鮎貝宗重と当主宗信親子)の間に紛争がおき、隠居している宗重らの面々とその仲間(一派)が取り除かれた。政宗はそのまま出陣し鮎貝へ押し寄せて合戦に及び、(宗信の兵)五十人余りを討ち取り、鮎貝城の実城(本丸)ばかりが残る状態となっている。明日は実城を押し破るであろうからご安心ください。
Cその上、最上との国境あたりは何事もなく静かである。
以上、➀・Bより、この事件を当初政宗は「鮎貝父子間の紛争」と認識し、政宗自身の判断で鮎貝城へ向けて出陣し宗信を攻めたことが判明する。Cよりこの一件で義光は鮎貝宗信に加勢せず全く動いていないことが判明する。
しかし、天正十五年「十一月四日、宮沢元実宛、伊達政宗書状写」(仙一五〇)では、一変して次のような表現となる。
D鮎貝宗信のことは去る十月十四日伊達氏に対する逆意(謀反)を企てたけれども、即刻出馬し、数百人を討ち取り、そのまま鮎貝城に押し詰めたので、鮎貝勢は一日も支えられず、その夜鮎貝宗信は行方知れずになって失踪してしまった。これによりすぐに仕置き(処置・裁定)を行い、翌日十五日に米沢城に馬を納めた。
Eその後、何事もなくいかにも静かで平和そのものである。
事件勃発当初「鮎貝父子間の紛争」と認識してた政宗がDにより、その十九日後に「鮎貝宗信による伊達政宗への謀反」と認識を一変させていることが判明する。政宗はこの事件が「鮎貝父子間の紛争」であるという事実を勃発当初から完全に認識していたにもかかわらず、十九日後の十一月四日に「鮎貝宗信による伊達政宗への謀反」であると事実のねつ造を行い、それを家中に宣伝し始めたと考えられるのである。
Eは、Cと合わせ読むと義光がこの件で最後まで一切加勢せず全く動かなかったことを証明するものである。さらに、鮎貝の一件に義光が関係していることを示す史料は、政宗自身の発給書状をはじめリアルタイムのものは一切なく、政宗自身義光が関係しているとの認識を持っていなかったと考える。『貞山公治家記録』 編者が「最上義光ノ勧メニ依テ叛逆ノ企アリ。」と自らの解釈を記した可能性が極めて高く、事実としては義光はこの一件に全く関係していない公算が極めて高い。
政宗は、鮎貝氏が最上領の境目を領する大きな勢力をもち、伊達家中で「一家」の最上位という位置付けの一方で、伊達氏とは独立した鮎貝七郷を領する国人であることに不安を覚えていた。鮎貝氏が近い将来最上氏と同心し、さらに近隣の境目の「伊達氏の従属国人であるが伊達氏・最上氏の両属的性格をもつ国人(中山の小国氏など)」らとともに、一大勢力となって伊達氏に敵対することになることに大きな脅威を感じていた。そのため鮎貝氏を境目の地から排除し、伊達氏の完全家臣化したいと考えていた。そんな折、「鮎貝父子間の紛争」が勃発したのを好機ととらえ、政宗自ら大軍を率い鮎貝領に出陣し、当主宗信を最上領に自落させ、事後処理として鮎貝氏を柴田郡内へ移し、伊達氏の完全家臣化することに成功したというのが真相であろう。
実は鮎貝氏は、政宗の出自と同じ藤原北家の山蔭中納言を祖とし、その孫の藤原安親が下長井荘の荘官となり、やがて武士として土着化した氏族で、伊達氏に全く劣らぬ名門であった。それもまた政宗にとっての脅威の一つであったろう。
現在、この鮎貝の一件を、「最上義光が北の庄内へ侵攻しそれに集中しており、南の伊達氏からの侵攻を恐れ、その手だてとして義光が鮎貝宗信に勧めて謀反事件を勃発させた。これにより政宗・義光の不和が決定的となった。」と説かれる傾向にある。しかし、これは逆に庄内侵攻で手一杯で義光が介入できないこの時期を好機ととらえ、政宗が鮎貝領へ軍事侵攻し、自らの目的を果たしたというのが実情であると考える。
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図2 伊達晴宗知行状(部分 鮎貝宗房氏所蔵)
本来、伊達氏は独立国人である鮎貝氏の本領七郷、そして「天文二十二年正月十七日、鮎貝兵庫頭宛、伊達晴宗知行状」(図2)で保証していた「守護不入」特権(棟役・段銭・諸公事を免除された上に、守護伊達氏の裁判権=検断権の不入を許されること)を有する知行地には入ることができないルールであった。しかしそれを犯して政宗が侵攻するには「正当なる理由」=「政宗への謀反」を創出する必要があったと解されるのである。
尚、政宗・義光の不和が決定的となったのは、天正十五年八月政宗の斡旋により成立した義光と庄内の大宝寺義興の和睦が、十月の義光の庄内侵攻により破綻したことによる。
《註》
・鮎貝氏は本領「最上川左岸の鮎貝・山口・箕和田・高岡・深山・黒鴨・栃窪の一帯七郷」を領する伊達氏とは独立した国人であった。
・本文中の「仙一四一」・「仙一五〇」は『仙台市史 資料編』⒑(一九九四年)掲載の「一四一号」・「一五〇号」文書の略。
■執筆:大沢慶尋(歴史博物館青葉城資料展示館主任学芸員)「歴史館だより22」より
2015.07.02:最上義光歴史館
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