最上義光歴史館 - 山形県山形市
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「最上義光再考 誉田慶恩『奥羽の驍将 最上義光』の見直しを通じて」
誉田慶恩『奥羽の驍将 最上義光』(人物往来社)は、50年近く前の1967年に刊行されたものであるが、現在も最上義光(1546−1614)研究の際の必読書といえる。誉田氏は多数の最上義光関係史料の博捜のもとに、等身大の最上義光像に肉薄している。本書の特徴は、最上義光を英雄としてではなく、実像を実証的に明らかにしようとしているだけに、大いに示唆に富んでいる。本書を読めば、現在においても最上義光研究のおおよそを知ることができる。
しかし、その後の武田喜八郎氏、片桐繁雄氏らの研究や、『横手市史』ほかの研究によって、ようやく誉田氏の提示された最上義光像にも疑義が提起されている。
私自身もここ10年ほど最上義光研究に従事し、できる限り史料の博捜に努め、250点ほどの最上義光書状などを収集できた。そうした史料などを使って見ると、誉田氏の玉著にもいくつかの問題があることがわかってきた。とりわけ、美術作品や文学作品が史料として使用されていない点なども大きな問題といえよう。そこで、『奥羽の驍将 最上義光』の問題点に注目しよう。
まず第1に、最上義光の幼年時代に関して、八日町の最上氏ゆかりの寺院宝光院旧蔵(現、山形大学図書館所蔵)の文殊菩薩騎獅像が全く利用されていない点がある。本像は刺繍仏であるが、それには、制作年・制作者名が刺繍されていてわかる。すなわち、この文殊像は、中野(山形市北西部)寿昌寺に住む源氏末葉の永浦尼が刺繍して、永禄6(1563)年4月17日に法(宝)光院住職増円に寄付したという文言が刺繍されている。宝光院は、最上家の改易(1622年)後は、最上氏の氏寺ではなく上野寛永寺の末寺として生き延びたために、最上時代の史料、とくに中野時代はまったく不明であった。本文殊像により、宝光院の住職は、永禄6年当時、増円であったことがわかる。
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ところで、刺繍者である永浦尼が住む寿昌寺は最上義守の菩提寺であったと考えられ、そこに住む尼は、最上義守の嫡妻か母と推測される。母だとすると、当時、60歳を超えていたと推測され、当時は、平均寿命は短く、義守の母が生きていた証拠がないことから、ひとまず、永浦尼は妻だと考えたい。もっとも、尼だといっても、当時は在家の尼として、普通の生活を送っていた。
義守の正妻は、系図によって相違があるが、そのうち、最上氏と密接な関係にあった寺院の一つである「宝幢寺系図」によれば、小野少将の娘とされる。それゆえ、永浦尼とは、小野少将の娘であったと推測される。
ところで、注目すべきことに、永禄6年6月14日には最上義守・義光父子が京都にのぼり、将軍義輝に拝謁している。この拝謁は、義光が元服し、その際、将軍の義輝(第13代将軍、1536〜65)の一字をいただいた事に対するお礼と考えられる。すなわち、臣従の礼を行ったのであろう。
そこで、本刺繍の制作が、同年4月17日であり、京都へのぼる2箇月ほど以前であることなどから、義守妻(義光の母)が、夫と息子の上洛の旅の安全と武運長久を祈って刺繍したものと考えられる(拙稿「山形市宝光院と文殊菩薩騎獅像」『山形大学大学院社会文化システム研究科紀要 第6号』, 2009)。
次に問題となるのは中野義時である。誉田氏は天正2(1574)年の最上氏の内乱を通じて、最上義光の弟で、中野の城主となった中野義時と最上義光との対立に光りを当てている。誉田氏は、最上義守が義光の弟義時を寵愛して跡を継がせようとし、元亀2(1571)年に義光に家督を譲ったにもかかわらず、天正2(1574)年には娘婿の伊達輝宗の援助のもとに義光と戦った。これを最上の乱という。
この中野義時の存在に関しては、片桐氏ほかの実在を否定する見解が出、大いに注目されている。といのも、大澤慶尋『青葉城資料展示館研究報告「天正二年最上の乱」の基礎的研究』 (2001)によって、天正2(1574)年に起こった最上の乱の実態が明らかになり、天正最上の乱関係史料に出て来る中野殿とは最上義守であることが確実となった。すなわち、最上の乱とは義守と義光との対立であったのである。それゆえ、天正2年の最上の乱を最上義光と中野義時との抗争とみる説は成り立たないといえよう。とすれば、中野義時は実在しなかったのかというと、少し疑問が残る。
義守・中野義時と義光との対立・抗争説は、古くは『乩補出羽風土記』(1792年刊)あたりから見られる。それは、両所宮の里見光當氏らが作成を企画したが死去したために、結局、弟子平田一元が遺志をついで刊行した。その「中野城」の項目には
義守嫡義光に山形を領せしめ、二男義時を中野の領主とせり、然るに兄弟不和にして、兄義光を亡さんと企、中野村山王別当宝光院、山形吉事宮の神職大宮司と両家にて、調伏の祈祷有けるに、其催し既に顕れ、義光大に立腹有て、義時は切腹被仰付亡ひたり*天正三年の頃とそ、その子備中仙台へ逃行*山王別当宝光院は追放、大宮司は改易に成、吉事宮別当には成就院に被仰付、家中より宮の内え引越、(中略)、其後義光、薬師寺別当国分寺え御入之時、国分寺法印種々御詫言申上ければ、御厚免有て、山王社並宝光院共に山形に引地に被仰付、今の鉄砲町の宝光院是也、*此時里見氏先祖、両所宮え押へのために、被付置しか、最上家改易の後威勢衰へ、いつとなく社家となれりとぞ、此事国分寺へ証文有*
とあり、宝光院と山形両所宮の大宮司が中野義時に味方して義光を呪詛した。おこった義光は山王別当宝光院を追放し、大宮司は改易され、山形両所宮は成就院の支配下になり、城内から宮の内へ移した。その後、国分寺法印の取りなしで、山王社並宝光院共に山形に移ってきたという。
この話は、山王社並宝光院が中野から山形城下に移ってきた理由を示していて興味ぶかい。というのも、中野時代の宝光院の資料については、文殊騎獅像以外になく、別当についても、はっきりせず、なぜ山形へ移転したのかも不明だったからである。この話は、一方の当事者であった両所宮に伝わった伝承で、「此事国分寺へ証文」が当時においては残っていたと考えられ、大いに示唆にとんでいる。
ところで、義時は、最上系図の菊地本にのみ見えるとされるが、注目すべきは、光明寺本(1746年編纂)最上系図には、最上義光の弟に「中野殿」と見えることである。
光明寺は、最上ゆかりの寺院であり、義光兄弟の一人に「中野殿」という、中野を拠点とした人物がいた可能性は残る。
とすれば、一つの可能性として、最上の乱に際しては、元服前の子供であったために、父義守が主導者であり、前面にはでなかったにせよ、義守は「中野殿」と呼ばれる義光の弟を擁していた可能性はまだ残っているのではなかろうか。
近年の研究によって、明らかになったいま一つは、文化人としての最上義光像であろう。すでに国文学の方では、最上義光の連歌を詠む文人としての側面に大いに光りが当てられてきた。しかし、誉田氏はそうした側面には光が当てられていない。近年は、片桐氏らによって、文化人としての側面が大いに注目されている。最上義光は決して田舎侍ではなかったのである。
さらに、最上義光の「目指していたもの」、理想が明らかにされていない。最上義光が戦国の動乱を武力とたくみな外交戦略によって、しだいに最上川を下って庄内に勢力を拡大していった。それは、偶然ではなかった。
というのも、最上義光は、「羽州探題」たらんと夢見ていたからである。最上家は、斯波兼頼が羽州探題として入部したことに始まる。義光は、この羽州探題として山形・秋田を支配することが夢であった。その夢は、天正16(1588)年に豊臣秀吉によって、羽州探題職に任命される(閏5月11日付中山光直書状、『横手市史 史料編 古代・中世』434頁)ことによって達成することになる。
ところで、私は、最上義光発給文書を250点ほど収集してみた。最上義光文書は年欠文書が多く、義光の活動を年代順に追うことは困難であった。だが、『横手市史』などによって、伊達のみならず、小野寺らの戦国大名との関係を通じて年が確定されつつある。
また、従来は、100点ほどの文書を使って最上義光の活動が論じられてきたこともあって、最上義光の生涯、とりわけ57万石を領有した江戸時代の叙述も十分とは言い難い。
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たとえば、図のような七得の小印が押された横折り紙の印判状は数多く残っている。とりわけ、慶長17年6月4日付けのもは100を超える寺社に出されたが、まさに慶長17年こそは庄内支配も完成した最上時代の一大画期であったのだ。
この他にも論じたいことは多いが、紙幅がつきたのでこれで筆をおこう。
■執筆:松尾剛次(山形大学人文学部教授)「歴史館だより20」より
松尾剛次先生の研究室のホームページ>>こちら
2014.06.08:最上義光歴史館
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