最上義光歴史館 - 山形県山形市

▼山野辺義忠の成長期を探る 【3】

最上義光の四男 山野辺義忠の成長期を探る

【三 石川氏と鮎貝氏の「知行状」】

 本稿の支柱となる二氏宛ての「知行状」と「家系譜」から、義忠の生い立ちを探る貴重な手掛かりを見つけることができる。しかし、その内容に就いての徹底した調査研究は、未だ為されていないのが現状である。「知行状」に登場する聖丸・聖王丸が、それが幼少の頃の義忠だということは、一部の間では是認されてはいた。しかし、それが「知行状」の徹底した解剖には結び付かずに過ごされて来たようだ。先ず、ここに取上げてみよう。

(A)[石川文書](東大史料編纂所影写本) 『山形市史・史料編1』所収

 「楯岡聖丸知行状」
今般楯岡ニ南田之内、知明堰ニ壱万苅之宛行之、於末可被致知行者也、仍如件
 天正廿年二月廿八日 楯岡聖丸(花押なし)
 石川与三右兵衛尉殿
(筆者注、『山形県史』は「聖丸」を「聖王丸」としている)

(B)[鶴岡石川家系譜]
隆重 
天文十五年丙午五月、小野田城ニ生ル、元亀元年家ヲ継ギ時ニ二十五才天正十八年、主家大崎探題家ハ太閤秀吉ノ小田原陣ニ参候セザルヲ以ツテ、領地ヲ没収サレ滅亡セリ、依ツテ同十九年小野田開城、羽州最上楯岡ニ移ル、慶長五年二月卒、

(隆重長男)
隆永 
味袋与惣兵衛、後ニ君袋肥前、曽テ味袋ヲ領ス、味袋ノ地名ハ見エズ、志田郡蟻袋ノコトナラン、父ト共ニ羽州楯岡ニ移リ住シ、最上出羽守義光ノ四男(比治利丸、聖丸、光茂トモ称ス)ニ仕エル、元和七年辛酉羽州山辺ニ没ス、七十才、

(C) [鮎貝氏系図所収文書] (近津家所蔵) 『山形県史・古代中世史料』所収
「楯岡聖王丸充行状写」
今般楯岡之内、谷地田并知明堰ニ壱萬五千苅之所進之、於末可被知行之也、仍如件
 天正廿年二月廿八日 楯岡聖王丸
(筆者注、『山形市史』は「聖丸」としている)

 先ず石川氏について述べてみよう。天正十九年(1591)の頃、奥州探題大崎氏の滅亡に伴い最上の地へ落ち延びた者達の中に、奥州加美郡宮崎城主の民部少輔隆親(後の笠原織部)がいる。[楯岡笠原文書]によれば、林崎(村山市大字林崎)村まで落ち延びて来たという。その住まいは、「当城主寄の所西柵之内住所賜……右没落之砌り民部エ附添、又追来シ従者家来之面々都合四十四人共従、林崎当之内エ為引取……」とあり、『北村山郡史』も、これを満茂が城西の地を与え住まわせたとして、、これを楯岡城の西柵(現大字楯岡二日町)としている。
 これは林崎の集落の東に位置するラ山楯跡、三月楯跡の存在から推定すると、当時は楯としての機能は、楯山の楯岡城に移っていたかも知れぬが、西柵はこの両楯に関わる位置に該当するのではなかろうか。(筆者注、この両楯については『中世戦乱の村山・中世の東根』(保角里志著)に詳しい)
 このように、奥州から逃れて来た者達の内、多くの者達が楯岡満茂に仕えたものと思われる。(A)に見える石川与三右兵衛尉とは、(B)の「隆永 味袋与惣兵衛」のことであり、「聖丸、比治利丸」が義忠の幼名であることが、その記述からはっきりしてくるだろう。この「知行状」は、紛れもなく義忠の発給したものである。また(B)は、最上家解体後に庄内に入った酒井家に仕えた、隆永の同族が伝えるものである。
 このように、義忠の幼年期に於ける知行形態の一端を、僅かながら知ることができるが、その宛がわれた領分が、楯岡満茂が占める楯岡地区の内に隣接していたものなのか、また義忠の他の家臣への給与体系が、この楯岡地区の内に、どのような形で存在していたであろうか。
 次に(C)鮎貝氏の記述に目を向けると、その内容は殆ど同じである。その発給年月が同一だということは、未だ五才にも満たない義忠の周辺に於いて、家臣の増強が行われていたのかも知れぬ。これは一方的な推測の域を出ないのではあるが、鮎貝氏もその内の一人であったのだろう。
 鮎貝氏は、置賜の地で永きに渡り威勢を振るった氏族である。摂津守宗信(忠宗)の時に伊達氏に反抗したが破れ、その過程に於いて一族と袂を分かった宗信は最上へ走った。
 『貞山公治家記録』(天正十五年十月条)は、次のようにいう。
……藤太郎(宗信)最上へ早馬ヲ以テ頻ニ加勢ヲ乞ケレトモ一騎モ来ラス、藤太郎籠城不叶シテ、此夜潜ニ城ヲ出テ逃奔ス、鮎貝城ニ於テ逆徒数百人ヲ撃殺ス、藤太郎ハ最上ノ家臣山野辺右衛門在所ニ隠レ居ルト……
 この条に出てくる山野辺右衛門とは、義忠と意識してのことなのか、それとも中世より続いた山野辺氏のこととして記録に止めたのか、義忠の出生の日時から推察すると、この時点に於いては、鮎貝宗信は未だ義忠の家臣ではなかったのではないか。その後、山野辺氏の家臣として再生の道を歩んだ鮎貝氏は、元和八年(1622)最上家解体後は義忠に従い、備前岡山の池田家から水戸の徳川家と移って行った。
 ここに、天保九年(1838)の[楯岡村村方明細帳]がある。慶長五年(1600))頃の楯岡の内に於ける義忠の諸領地を示すものであろうか。

慶長五年山野辺右衛門被下置
 楯岡町
  大沢川水下
  大沢川
 城道  立町
 同断  横町
 馬場  宿馬乗

 この幕末の村方明細帳から、義忠の楯岡地区内の諸領地を知ることができるが、これが全てなのかは分からない。二氏の「知行状」に見える知明堰、谷地田などが、楯岡の内の何処にあったものなのかは、今のところ調べは進んでいない。しかし、義忠の諸領地が有ったという事実は証明されるだろう。
 また[最上楯岡元祖記]には、「……元和の楯岡甲斐守光直の所領ヲ一万六千石、ソノ知行地ヲ大石田、湯之沢、井出、ラ山、深堀、楯岡、林崎ノ七ケ村……」としており、これらは天正から文禄にかけての、楯岡満茂時代の諸領地であったとも考えられる。
■執筆:小野未三

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2012.12.23:最上義光歴史館

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