最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼最上家臣余録 【氏家守棟 (6)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【氏家守棟(6)】
上山城に関わる記述の他にも、軍記史料によれば、氏家は様々な献策を義光に対し行っているとされる。
・『奥羽永慶軍記』羽州天童合戦ノ事
(前略)其後氏江尾張守、義光ニ申ケルハ、臣ツラヽヽ愚慮ヲ巡ラスニ、
何トモシテ延沢ヲ味方トナサスハ、天童ノ城落ル事ヨモアラシ、
幸爰ニ姫君御一所オハシマス、延沢ノ嫡子又五郎ニ縁ヲ結ビ給ハヽ、
能登守ハヨシミニ依テ味方ニ参ル事モヤ候ハン、
試ニ使者ヲ以テ申遣ハサンヤト申ケレハ、(後略)
と、義光に延沢満延を懐柔する案を持ちかけている。事実、延沢の嫡子又五郎には義光の長女松尾姫が嫁したため義光方に転じ、天童落城の原因の一端となるのであるが、実際に氏家尾張守がこの策を立案したかどうかは一次史料の裏付けがなく判然としない。
なお、慶長末頃の家臣団編成を表したとされる「最上義光分限帳」では、氏家左近が「氏家天童」と肩書きされており、氏家氏は一時期天童城を預かっていたようだ。天童の愛宕神社には、慶長十四年に氏家光氏が奉納した石灯籠が現存しており、氏家氏と天童の繋がりの深さをうかがわせる。
また、『山形県史』によれば、天童落城の直後は城主が置かれなかったようで、天童領は延沢預かりの蔵入地となったとしている。しかし、前述した史料Vを参照する限りでは、義光は山家九郎二郎に対して「天童領分」の「温津成生」のうち七千束を宛行っていることが確認される。どうやら、天童氏の領分全てが蔵入地となったわけではないようだ。
最上義光が白鳥十郎を謀殺した際にも、義光と守棟が念入りに相談して策を練っている様子が描写されている。
・『奥羽永慶軍記』白鳥十郎被討事
(前略)氏江承リ義光ニ申ケルハ、(中略)白鳥稚姫ヲ持給フト承ル、
是ヲ御嫡子義安公ニ御縁ヲ結ハセ給ヒ、其後白鳥心トケ油断ノ所ヲ、
是へタハカリ寄、討候ハンニハ子細候マシト申ケル(中略)
氏江尾張守承リ義光ニ申ケルハ、夫ハ頗御大事ニテコソ候ラヘ、
某謀ヲ以テ是へ安々ト招クヘシ、(後略)
これも、その他の記述と同様に一次史料の裏付けがなく史実であるかは断定できない。しかしながら、当時すでに氏家守棟は義光の側近としての地位を確立していたと推察できる事から、最上家が関与した軍事・外交活動に深く関与している事は間違いないだろう。
〈続〉
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2012.03.07:最上義光歴史館
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