最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼最上家臣余録 【氏家守棟 (4)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【氏家守棟(4)】
さらに、『山形県史 古代中世史料』では天正六年発給と推定されている年未詳五月十日付最上義光宛行状(注13)には、
今度満兼於抽忠者、恩賞として上野山一跡無残所、可宛行之、
軍功之輩知行配分之義、追而d有沙汰者也、依而證文如件、
五月十日 義光
里見越後守
と、「今度満兼於抽忠者」の恩賞として、義光が里見越後に対し上野山一帯を宛行うとある。このように、上山の里見一族が最上義光の被官となった時期は各々の史料によって大きく異なる。それでは、実際に氏家守棟の主導で調略が行われ、上山城主が変わったとすれば、それはいつであろうか。
まず、根本史料となりうる諸史料の信頼性を検討していく。
A、『性山公治家記録』(注14)ならびに『天正二年伊達輝宗日記』(注15)
『性山公治家記録』(以下『記録』)は、仙台藩四代藩主の伊達綱村が命じ編纂させた伊達家の正史編纂物である。元禄十六(1703)年に成立した。編纂にあたっては、諸記録類や当時残存していた書状史料等が情報ソースとして用いられている。
『天正二年伊達輝宗日記』(以下『日記』)は、天正二年正月から十二月に至る一カ年間の日記史料で、伊達輝宗自らがその日毎の天気や軍使・書状の往来を書き記した一次史料である。天正二年当時の最上家を取り巻く状況を検討しようとする際、根本史料たりうる信頼性をもった史料と評価できるだろう。
『記録』天正二年の記述には、その根拠として『日記』がその根拠として用いられているようで、先述した氏家・里見らが伊達家側と折衝を繰り返している部分は、
・『記録』九月一日条
御和睦ノ義ニ就テ、当家ヨリ亘理兵庫頭元宗、義光ヨリ氏家尾張、
中途ヘ出合ヒ相談ス
・『日記』九月一日条
(前略)日理殿(亘理元宗)・うちへ(氏家守棟)出合候、(後略)
・『記録』九月四日条
当家ヨリ草刈内膳、義光ヨリ里見民部、途中ニ出合ヒ御和睦ノ相談アリ
・『日記』九月四日条
(前略)しやうきさす、草内(草刈内膳)・さと民(里見民部)ゆきあい候
と、同内容の記述がされている。よって、該当部分の信頼性は非常に高いと判断される。
B、里見越後守宛 年未詳五月十日付 最上義光宛行状
『山形県史 古代中世史料』では天正六年発給と推定されている書状史料であるが、内容には疑問を呈せざるをえない。義光が発給した元亀〜天正期の宛行状をいくつか挙げてみると、
史料T:元亀三年三月十七日付 最上義光宛行状(注16)
此方罷越致奉公付而、妙見寺之内仁千苅、飯田内千苅、
妙見寺内畠一貫地相添候、於末代可致成敗候者也、
元亀三年三月十七日 義光(花押影)
荻生田弥五郎殿
史料U:天正九年八月五日付 最上義光宛行状(注17)
山邊南分之内、仁千束仁百五十かり為取置候、末代可致知行候也、
(鼎形黒印) 印文「出羽山形」
天正九年辛巳八月五日
神主八郎殿
史料V:天正十二年三月四日付 最上義光宛行状(注18)
天童領分温津成生ニ、七千束苅為取置候、末代可致知行候也、
義光(小黒印)
天正十二年甲申三月四日
山家九郎二郎殿
これら宛行状と、先に挙げた里見越後宛宛行状の差異を抜きだしてみよう。
1 史料T・U・Vには黒印・花押など義光本人を示すサインが
用いられているが、里見越後宛宛行状にはそれに類するものが
認められない。
2 史料T・U・Vでは、結びの一文が「末代可致知行(成敗)候也」と戦国期
武家文書における定型文を用いているのに対し、里見越後宛宛行状では
「依而證文如件」と非常に近世的な表現がされている。
3 宛行状には、発給日時を年号付で記すのが通例である。
史料T・U・Vでは発給年・月・日が明記されているが、
里見越後宛宛行状では発給年が記されていない。
以上を考慮し、また、この里見越後宛宛行状は原本が残存している訳ではなく『諸将興廃録』なる書籍からの抜粋である(注19)ことから考えても、この書状史料は偽文書である可能性が高く、信頼性には大きな疑問符を付けざるをえないと考えられる。
〈続〉
(注13)『山形県史 古代中世史料1』年未詳五月十日付 最上義光宛行状写
(注14)『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』
(注15)『同上』
(注16) 『山形県史 古代中世史料1』元亀三年三月十七日付 最上義光宛行状
(注17)『同上』天正九年八月五日付 最上義光宛行状
(注18)『同上』天正十二年三月四日付 最上義光宛行状
(注19)『奥羽永慶軍記』「上野山満兼被討事」に同内容の書状抜粋がある。
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2012.02.29:最上義光歴史館
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