最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼最上家臣余録 【鮭延秀綱 (6)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【鮭延秀綱 (6)】
4 鮭延秀綱の官途について
ここでは鮭延秀綱が名乗った官途名について考察を展開する。鮭延秀綱は文書史料や軍記物史料において「鮭延典膳」もしくは「鮭延越前守」と名乗っているが、この二つの官途名が時期的にどのように使い分けられているかという事が本項の本題となる。なお、検討に使用した文書史料は「鮭延」+「官途名」の記載がある書状数通、軍記物史料は『最上記』『会津四家合考』『奥羽永慶軍記』『鮭延越前守功績録』などである。
4−1 文書の発給年代と官途名
鮭延秀綱に関して、取り上げた史料には発給年代が明記されていない物も多い。以下では、文書の内容考察と先行研究によりその発給年代を検討してみたい。
以下「典膳」と名乗っている文書をいくつか挙げる。
書状(注41)
庄中へ鮭延典膳さし越候処ニ、手まへ無人数のよし申候間、
其方之事者彼仁ニさし添、(後略)
文書の内容は「庄中へ鮭延典膳を遣わしたが手勢が不足しているようなので、援軍に行ってもらう。何事もよくよく相談して取り計らうように」ということである。天正九年に鮭延が最上氏の影響下に置かれた後、庄内の武藤氏との抗争中に発給された書状で、発給時期は恐らく天正十年頃であろう(注42)。
書状(注43)
急度啓之候、仍從伊達大崎へ出張、近日之様に申來候、(中略)
典膳・安食七兵衛付丹与三なとへ、兼而能々相談候而、
少も油断有間敷候、(後略)
この書状は、最上義光が受給者の庭月和泉守に対して、「鮭延秀綱や丹与左衛門と協力して真室地方の守りを固めよ」と申し送っている内容の書状である。「伊達大崎へ出張〜」とあることから、天正十六年一月に大崎家と伊達家の間に起こった大崎合戦に最上家が介入した時期に発給された書状であることが見て取れる。
書状(注44)
急度及注進候、仍其元于今御在堪之儀、万々御気遣奉察候、
(中略)恐々謹言、
鮭延典膳
二月八日 愛綱(花押)
色部殿
御旅所
書状(注45)
急度脚力到來本望候、如御帋面候、未申通心疎之至候、(中略)
於巨細者鮭典へ及細報候条、不能具候、恐々謹言、(後略)
・は、天正十八年から天正十九年にかけて執行された秀吉の東北検地において、検地奉行上杉景勝の代理であったその家臣色部長真と、案内役である最上家の責任者鮭延・氏家の間でやり取りされた書状である。
続いて「越前守」と名乗っている文書の発給時期を検討する。
書状(注46)
尚々、秋田(より)の書状、本書をハこなたニをかせられ候、
(中略)
大坂落人之事、秋田へ被仰越候ヘハ、請取不被申候由、(中略)
鮭延備前守
直(花押影)
本豊州様
御報人々御中
書状(注47)
谷地之者人質ニ付而被入御念、秋田へ両度迄御使被遣様子、
條々承候、(中略)
鮭越前守
本城豊州様 愛(花押影)
御報
既出の・の書状であるが、内容が関連している事・発給者と受給者がほぼ同一な事・日付が近い事から、同時期に発給された書状であると推測される。本文頭に「大坂落人之事、」とあり、慶長十九年から二十年にかけて発生した大坂の役直後に発給された文書と見るのが妥当であろうか。の「備前守」は「越前守」の誤記もしくは誤読であろう。
書状(注48)
已上、如來札春陽之御慶、珎重候、(中略)
鮭越前守
正月三日 愛(花押)
小野寺刑部殿
御報
「小野寺刑部」からの贈り物に対しての礼状である。この宛人の「小野寺刑部」という人物であるが、仙北横手の小野寺氏とは異なる系譜の小野寺氏であるようだ。佐竹氏秋田藩に伝わる小野寺氏系図によれば、小野寺刑部は永禄三年に上野厩橋に生まれ、北条→武田→真田→上杉と主君を替えている。慶長五年には上杉家の家臣という立場にあり、慶長出羽合戦後に最上家に仕えたことが確認できる(注49)。文書の記載内容から発給年代を精密に特定することは難しいが、天正期〜慶長初期にかけて鮭延との交流があったとは考えづらい。やはり慶長五年ないし六年以降、小野寺刑部が最上家に仕官した後にやり取りされたものであると考えた方が自然であろう。
<続>
(注41) 「楓軒文書纂所収文書」三月二十二日付最上義光書状(『山形県史史料編1』)
(注42) 『山形市史史料編1 最上氏関係史料』
(注43) 「楓軒文書纂所収文書」二月十六日付最上義光書状(『山形県史史料編1』)
(注44) 「色部文書」二月八日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注45) 「同上」二月晦日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注46) 「秋田藩家蔵文書」十一月十二日付日野備中守外連署書状(『同上』)
(注47) 「同上」十一月二十八日付東根薩摩守外連署書状(『同上』)
(注48) 「本間美術館所蔵文書」正月三日付鮭延愛綱書状(『同上』
(注49)小野末三『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜 −再仕官への道程−』(最上義光歴史館 1998)
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2010.04.10:最上義光歴史館
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