最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼宝光院の文殊菩薩騎獅像
宝光院の文殊菩薩騎獅像
山形市八日町にある天台宗宝光院所蔵の文殊菩薩騎獅像について問題点を述べてみたい。この文殊菩薩騎獅像については、松尾剛次氏の見解が発表されており、これを踏まえて考察する。ただし、騎獅像そのものの評価および宝光院の歴史については割愛する。
文殊菩薩騎獅像の上部から左上部には次の文言が刺繍されている。「出羽国最上/中野内/寿昌寺住/源末葉/永浦尼繍/永禄六年癸亥四月十七日」とあり、この騎獅像は永禄6年(1563)4月17日に中野の寿昌寺に住する源氏の末葉の永浦尼が刺繍したことになる。
問題は、騎獅像の右上部にある一行をどう読むかである。松尾氏は「上宝光院住増圓」と解読し、永浦尼が宝光院住職増円にこの文殊菩薩騎獅像を寄付したと理解されていることである。
しかし、これには問題がある。まず、この刺繍の文言のうち「出羽国最上……永禄六年癸亥四月十七日」の文字は、その大きさや字配りには納得できるものがある。しかし、「上宝光院住増圓」の文字は騎獅像の右上部に偏り、文字も若干小さい印象を受ける。少なくとも、全体の文言の中でこの部分はバランスを欠いていると言わざるを得ない。「上宝光院住増圓」の文字は「出羽国最上……永禄六年祭亥四月十七日」の文字が刺繍された後に付け足されたものではないかと思われる。ただし、永浦尼の刺繍であることを否定するものではない。しかし、後補となれば、当初から宝光院住職増円に寄付されたとするには疑問がある。
最大の問題は、この部分を「上宝光院住増圓」と解読してよいかということである。このうち「上」については、すぐ左隣に「最上」の「上」の文字があり、比較すると非常に違和感がある。この「上」は「之」と読むべきではないかと考える。とすれば、この部分は「出羽国最上/之宝光院住増圓」と続けて読むほかはないのではないかと思われる。読み方としては異例ではあるが、このように考えざるを得ない。とすれば、この騎獅像は増円の発願により永浦尼が刺繍したと考える余地もある。
次に寿昌寺および永浦尼についてである。刺繍文によると、寿昌寺は中野にあったわけだが、現在中野に寿昌寺は存在せず、その痕跡も知られていない。永浦尼が住する尼寺であるが、松尾氏が「寿昌寺は最上義守の菩提寺」と断定する根拠は何であろうか。従来、義守の菩提寺は龍門寺しか知られておらず、寿昌寺に関する手がかりはない。
さらに、この刺繍は永浦尼を「源末葉」としている。永浦尼は源氏の後裔で尼となった人物である。松尾氏は永浦尼を「義守妻(義光の母)」とされているが、義守の妻については、いまだ確認されていない。わずかに小野少将の娘とする説があるが、確実なものではなく、また小野氏が源氏の後裔であったとは思われない。
義守の妻が夫の存命中、しかも最上氏の当主であった時期に、夫に先立って剃髪・出家し、尼僧となることは考えられない。源氏の後裔となれば最上一族で、義守の姉妹である可能性が高いと思われる。また、義守は中野義清の次男とされるので、義清の妻、つまり義守の生母の可能性もある。
【附記】宝光院の文殊菩薩騎獅像は、現在山形大学附属中央図書館の所蔵となっている。
■執筆:粟野俊之(大本山永平寺史料全書編纂室室長)
「『村山民俗学会』会報 第207号」(発行日2009年1月1日)より転載
※掲載にあたっては、執筆者の粟野俊之氏並びに村山民俗学会会長野口一雄氏の許可を得て、村山民俗学会事務局市村幸夫氏のご協力をいただきました。
2009.01.31:最上義光歴史館
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