最上義光歴史館(もがみよしあきれきしかん)

最上義光歴史館(もがみよしあきれきしかん)/ヘッダー 最上義光歴史館 こどもページ表紙へ こども一般ページへ
ログイン
メモ メール アンケート カレンダー ブックマーク マップ キーワード スペシャル プロジェクト

モガミヨシアキじゃ!!

これから最上義光歴史館(もがみよしあきれきしかん)のことを説明(せつめい)するゾ!!

最上義光歴史館(もがみよしあきれきしかん)は、平成元年(へいせいがんねん/1989年)12月1日にできた博物館(はくぶつかん)なのじゃ!!

できた理由(りゆう)は、いまからやく400年前(よんひゃくねんまえ)に活躍(かつやく)した山形(やまがた)の殿さま(とのさま)の最上義光(もがみよしあき)…つまりワシのことやワシのご先祖さま(ごせんぞさま)のこと、山形(やまがた)の昔(むかし)のことなどを、たくさんの人(ひと)におしえるためなのじゃ。

どのようにしておしえているのか??…じゃと!?

よしよし!!すこしだけ説明(せつめい)してやろう!!

ワシが使っていたカブトや鉄(てつ)でできた指揮棒(しきぼう)、ワシが書いた(かいた)手紙(てがみ)など、古くて(ふるくて)、めずらしくて、しかもとても大切(たいせつ)なモノ…かんたんにいうと最上家(もがみけ)の宝モノ(たからもの)をかざって、みんなに見せて(みせて)いるのじゃ!!

それだけではないゾ!!いまからやく650年前(ろっぴゃくごじゅうねんまえ)に山形(やまがた)にやってきたワシのご先祖さま(ごせんぞさま)である斯波兼頼(しば・かねより)のことや最上家(もがみけ)の歴史(れきし)、山形城(やまがたじょう)のこと、ワシの娘(むすめ)の駒姫(こまひめ)のこと、山形(やまがた)の昔(むかし)のことなども、めずらしい宝モノ(たからもの)をつかってわかりやすくみんなに紹介(しょうかい)しているのじゃ!!

○最上義光(もがみよしあき)のこと!!
○最上家(もがみけ)の殿さま(とのさま)たちのこと!!
○駒姫(こまひめ)のこと!!
○山形城(やまがたじょう)のこと!!
○昔(むかし)の山形(やまがた)のこと!!
○サムライがつかっていたホンモノのカタナやヨロイのこと!!
○昔(むかし)のたいせつな絵やめずらしい道具(どうぐ)のこと!!


どうじゃ??行って(いって)みたいと思わん(おもわん)か??

おっと!!そうじゃ!!そうじゃ!!クイズもあるゾ!!
クイズをときながらワシのことを勉強(べんきょう)することもできるゾ!!
なんと!?ぜんぶ正解(せいかい)すると景品(けいひん)がもらえるはずじゃ!!

土曜日(どようび)は小学生(しょうがくせい)・中学生(ちゅうがくせい)のみんなはタダでみることができるゾ!!

ワシのところにあそびにくるのじゃ!!まっておるゾ!!



最上義光歴史館を画面上で見学してみよう!!


画面上の矢印をクリックして移動してみよう!!画面上でマウスをクリックしたままポインターを操作すると上下・左右・前後に画面を移動できます。画面右下の「+」「−」をクリックすると画面を大きくしたり引いたりすることができます。画面右にあるコンパスの矢印をクリックすると画面を左右に回転させることができます。さあ!!歴史館へGO!!

ワシが最上義光(もがみよしあき)ダ!!

いまから自己紹介(じこしょうかい)をするゾ!

ワシは約450年前の天文15年(1546)1月に山形城で生まれた。山形城は知っているか?いまは霞城公園になっているところダ!!

ワシの父は義守(よしもり)といって、最上家の10番目の殿様ダ。ワシはその長男として生まれたのダ!!子供のころは「白寿丸(はくじゅまる)」という名前で呼ばれておった。

ワシは永禄3年(1560)という年に15才で「元服(げんぷく)」したゾ!「元服」は知っているか?大人として認めてもらうための儀式ダ!これでワシも一人のサムライとして認めてもらったのダ!それから、その時日本で一番えらいサムライだった将軍(しょうぐん)足利義輝(あしかがよしてる)から「義 (ぎ)」という字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ることにしたのダ!!まあ、親しい人間からは源五郎(げんごろう)と呼ばれておったがな。

ワシが25歳になった元亀元年(1571)に、父の義守が引退(いんたい)したので、11番目の殿様になったゾ!!
11番目の殿様という意味はわかるか?ワシの先祖はいまから約650年前に山形に来て山形城を作った斯波兼頼(しばかねより)という人だが、その人から数えて11番目の最上家の殿様であり、11番目の山形城の殿様ということダ!!

殿様になってから、ワシは山形に住んでいるたくさんの人たちが、平和で幸せにくらせるように、たくさんいろいろな事をしたゾ。その事は、また別のページで教えよう!!

ワシはたくさん戦争をしたが、ムダな命はとらなかった。降参(こうさん)した人やかしこい人は自分の家来(けらい)にしたりしたゾ!「だましてあいてを殺したズルイ殿様」だって?ノー!!ノー!!そのやりかたが一番死ぬ人が少ないんだゾ!!たくさんの兵隊があつまって戦うよりも、あいてのえらい人だけやっつけた方が、死ぬ人の数が少くないし、大切な町や田畑がこわされなくてすむのダ!!そんなことも知らないのか!?ワシは人の命が一番大切なものだと思っている。

約400年前の慶長5年(1600)に、山形で大きな戦争(慶長出羽合戦/けいちょうでわかっせん)があったが、そのとき無敵(むてき)の軍隊(ぐんたい)からワシの軍隊が勝ったのダ!だれの軍隊に勝ったかわかるか?そう最強の軍隊上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家来の直江兼続(なおえかねつぐ)の軍隊ダ。どうだ、すごかろう!!

そのあとワシは、そのすごさが認められて、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)という広い土地を管理する大大名(だいだいみょう/大名よりもすごい大名)になったのダ。

ワシも66才になった、慶長16年(1611)に従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)という位(くらい)をもらったゾ。ワシのことをみんな「虎将(こしょう)」というニックネームで呼ぶが、どうやらその位である近衛少将⇔虎賁郎将(こほんろうしょう)が関係しているらしい!!「虎将」という文字もかくれているゾ!!

残念ながらワシも人間ダ、慶長19年(1614)1月18日、69才のときに病気で死んでしまった。69才…昔はそれでも長生きしたほうだと思うゾ!!

ワシのお墓は山形市の光禅寺(こうぜんじ)というお寺にあるゾ。ぜひお参りにきてくれ!!

それではひとまずお墓にもどるとしよう…
最上義光歴史館(もがみよしあきれきしかん)/フッター こどもページ表紙へ こども一般ページへ