最上義光歴史館(もがみよしあきれきしかん)

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質問:義光公の好きな食べ物は何だったのですか?



ハセ博士:はっきりしたことはわかっていないんじゃが・・。
昔から庄内地方(しょうないちほう)にのこっている話だと、義光は庄内が自分の土地になったので 、「これで魚が手に入る!!」とたいそう喜んだそうじゃ。特に塩引き(塩しゃけ)などは大好物(だいこうぶつ)だったらしいぞい。わしも大好きじゃ♪


▲鮭の塩引き

それから義光が人からもらったプレゼントで喜んだものでは、くだものでは「ゆず」や「みかん」、海のものでは「くじら」や「鯛(たい)」など、とくに山形では手に入らないものを喜んだという記録が残っておる。

質問:義光公が小さいころはどんな子供でしたか?



ハセ博士:義光はな、5歳ぐらいのころから他の子供たちより体が大きくて力も強く、5歳なのに10歳くらいの力持ちの子供だったという伝説もある。

いまでも蔵王温泉(ざおうおんせん)にある「義光公の力石(よしあきこうのちからいし)」は、家来たちと持ち上げる競争(きょうそう)をして、義光だけが持ち上げることができたというエピソードが残っている有名な石じゃ。
さてさて…みんなは持ち上げることができるかな?


▲義光公の力石 

そうそう、こんな伝説もあるのう。
ある夜、お父さんといっしょに蔵王温泉で盗賊(とうぞく)におそわれたとき、一番最初に敵にたちむかって、敵の大将(たいしょう)をやっつけたそうな。
そのとき義光はまだ16歳で、お父さんはたいそう喜んで最上家に伝わる名刀「笹切丸」(めいとう「ささきりまる」)を義光にくれたということじゃ。
将来(しょうらい)の大物(おおもの)ぶりを予感(よかん)させるような少年時代(しょうねんじだい)だったようじゃな。

蔵王温泉の地図

質問:一生のうちでどんな戦争をしましたか?



義光が若い時代の400年数十年くらい前の日本は戦国時代と呼ばれておってな、日本の国のなかでもふつうに戦争があった時代じゃ。
たとえばな、山形県と宮城県が戦争をするようなもんじゃ。こわい話じゃがそれがふつうだったのじゃ。
義光もな、自分の土地である山形に住んでいる人を守るために、なんども戦争をしておる。

 ・天童氏との戦い
 ・寒河江氏との戦い
 ・鮭延氏(最上)との戦い
 ・武藤氏(庄内)との戦い
 ・本庄氏との戦い
 ・上杉氏との戦い
...もっと詳しく

ワシが最上義光(もがみよしあき)ダ!!

いまから自己紹介(じこしょうかい)をするゾ!

ワシは約450年前の天文15年(1546)1月に山形城で生まれた。山形城は知っているか?いまは霞城公園になっているところダ!!

ワシの父は義守(よしもり)といって、最上家の10番目の殿様ダ。ワシはその長男として生まれたのダ!!子供のころは「白寿丸(はくじゅまる)」という名前で呼ばれておった。

ワシは永禄3年(1560)という年に15才で「元服(げんぷく)」したゾ!「元服」は知っているか?大人として認めてもらうための儀式ダ!これでワシも一人のサムライとして認めてもらったのダ!それから、その時日本で一番えらいサムライだった将軍(しょうぐん)足利義輝(あしかがよしてる)から「義 (ぎ)」という字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ることにしたのダ!!まあ、親しい人間からは源五郎(げんごろう)と呼ばれておったがな。

ワシが25歳になった元亀元年(1571)に、父の義守が引退(いんたい)したので、11番目の殿様になったゾ!!
11番目の殿様という意味はわかるか?ワシの先祖はいまから約650年前に山形に来て山形城を作った斯波兼頼(しばかねより)という人だが、その人から数えて11番目の最上家の殿様であり、11番目の山形城の殿様ということダ!!

殿様になってから、ワシは山形に住んでいるたくさんの人たちが、平和で幸せにくらせるように、たくさんいろいろな事をしたゾ。その事は、また別のページで教えよう!!

ワシはたくさん戦争をしたが、ムダな命はとらなかった。降参(こうさん)した人やかしこい人は自分の家来(けらい)にしたりしたゾ!「だましてあいてを殺したズルイ殿様」だって?ノー!!ノー!!そのやりかたが一番死ぬ人が少ないんだゾ!!たくさんの兵隊があつまって戦うよりも、あいてのえらい人だけやっつけた方が、死ぬ人の数が少くないし、大切な町や田畑がこわされなくてすむのダ!!そんなことも知らないのか!?ワシは人の命が一番大切なものだと思っている。

約400年前の慶長5年(1600)に、山形で大きな戦争(慶長出羽合戦/けいちょうでわかっせん)があったが、そのとき無敵(むてき)の軍隊(ぐんたい)からワシの軍隊が勝ったのダ!だれの軍隊に勝ったかわかるか?そう最強の軍隊上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家来の直江兼続(なおえかねつぐ)の軍隊ダ。どうだ、すごかろう!!

そのあとワシは、そのすごさが認められて、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)という広い土地を管理する大大名(だいだいみょう/大名よりもすごい大名)になったのダ。

ワシも66才になった、慶長16年(1611)に従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)という位(くらい)をもらったゾ。ワシのことをみんな「虎将(こしょう)」というニックネームで呼ぶが、どうやらその位である近衛少将⇔虎賁郎将(こほんろうしょう)が関係しているらしい!!「虎将」という文字もかくれているゾ!!

残念ながらワシも人間ダ、慶長19年(1614)1月18日、69才のときに病気で死んでしまった。69才…昔はそれでも長生きしたほうだと思うゾ!!

ワシのお墓は山形市の光禅寺(こうぜんじ)というお寺にあるゾ。ぜひお参りにきてくれ!!

それではひとまずお墓にもどるとしよう…

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