最上義光歴史館(もがみよしあきれきしかん)

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「ワシはハセ博士じゃ。最上義光に関する質問・疑問なら何でもワシが答える
ぞ!みんなからの質問待ってるぞい!」
質問:義光はいつの時代の人なの?


ハセ博士:「義光は今からざっと400年くらい前の人じゃよ。戦国時代(せんごくじだい)と言われておった1546年に生まれ、やがて天下(てんか)が統一(とういつ)されていよいよ世の中が平和になった1614年までの間、山形を中心に生きた人物じゃ。」



「同じ時代の有名人(ゆうめいじん)には、みんなも知っている織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康(とくがわいえやす)などがいてね、信長とは実際に会ってはいないが手紙のやり取りくらいの付き合いはあったらしい。次の秀吉は義光より9歳ほど年上でね、この秀吉と義光は何度も会っておる。そして最後の家康は4つ年上で、3人の中で義光が最も信頼し、仲が良かった人だと言われておるんじゃよ。」
質問:義光の家族について教えてください。


ハセ博士:「義光のお父さんは最上義守(もがみよしもり)という山形城の殿様だった。義光はその殿様の長男として生まれたんじゃよ。残念ながらお母さんの名前はわからないが、兄弟は2歳年下の妹と、他に弟が2人いたと言われておる。人数ははっきりしていないんじゃが、義姫(よしひめ)と呼ばれていたこの2歳年下の妹と本当に仲が良くてね、今でも義光が妹にあてた手紙がたくさん残っておるんじゃよ。」


▲仙台市/伊達政宗像

「この妹は、そのとき米沢城(よねざわじょう)の殿様だった伊達輝宗(だててるむね)という人のところにお嫁に行ったんじゃが、その子供が、かの有名な独眼竜・伊達政宗(どくがんりゅう・だてまさむね)なんじゃ。だから最上家と伊達家で、となりどうしの争いごとがあったときも、2人の仲が良かったおかげで様々な危機(きき)を乗り越えられたんじゃよ。米沢城の本丸(ほんまる)の東に住んでいたことから、みんなからは”お東さま(おひがしさま)”と呼ばれて親しまれていたそうじゃ。」
質問:義光はどんな顔だったのですか?


ハセ博士:「ニックネームでは虎将(こしょう)と呼ばれておった義光じゃが、この通り1枚だけ義光の肖像画(しょうぞうが)が残っておる。」



「むかしに書かれた本には、顔つきは色白で、冷静(れいせい)な印象(いんしょう)の眼差し(まなざし)‥なんていう表現(ひょうげん)が残っておる。とにかく『尋常(じんじょう)ならざる大将なり』‥つまり平凡(へいぼん)でない大将だったそうじゃよ。みんなにはどんな風に見えるかな?」
質問:義光はどこに住んでいたのですか?


ハセ博士:「義光は一生(いっしょう)のほとんどを山形で暮らしたんじゃが、普段は山形城内の御殿(ごてん)に暮らしていたと言われておる。御殿は今の霞城公園(かじょうこうえん)の中心よりももう少し南の辺りだったそうで、御殿の周りには成人(せいじん)した子供たちも屋敷(やしき)をもらって住んでいたそうじゃよ。」


▲山形城の二の丸東大手門

>>現在の山形城(霞城公園)周辺の航空写真
質問:義光は何が好きだったんですか?


ハセ博士:「義光は文学(ぶんがく)や芸術(げいじゅつ)が大好きだったと言われておるんじゃよ。戦国武将(せんごくぶしょう)として有名な義光じゃが、最近ではもしかすると武道(ぶどう)よりも文学の才能(さいのう)の方があったのでは?なんて言う人もいるくらいじゃ。」


▲義光の直筆の手紙(最上義光書状/伊泉大善亮宛)

「とくに和歌(わか)や連歌(れんが)を詠(よ)んだり、むかしの物語を読んで勉強したりするのは大好きでな、他に絵巻物(えまきもの)や屏風(びょうぶ)、陶器(とうき)などの美術品(びじゅつひん)のコレクターとしてもなかなかの人だったそうじゃよ。また今も残っている義光の手紙を見ても、義光の字のうまさや文章のセンスは評価(ひょうか)が高いものなんじよ。」
質問:義光はどんな性格(せいかく)だったのですか?



ハセ博士:義光はいろいろなところにたいそう気をつかう人物だったようじゃ。戦争に出てケガをした家来たちには、義光が自分でやさしい見舞状(みまいじょう/体のぐあいを気にした手紙)を書いものがいくつも見つかっておる。

廣川喜右衛門の見舞状(ひろかわきうえもんのみまいじょう)
【現代語訳】今度の戦いでの働き、よくがんばってくれた。ケガをしたということだが、大変心配している。しっかり治して元気になって欲しい。
▲「早く治して元気になってくれ」という、義光の家来へのあたたかい心づかいが伝わる手紙として有名です。

また、自分の土地に住むお百姓さんたちのこともたいそう気にかけておってな、まるで自分の家来のように思って大切にしておったそうじゃ。その証拠に、義光の時代にはただの1度も百姓一揆(ひゃくしょういっき/お百姓さんたちがお互いに団結して殿様に反抗すること)は起こっていないんじゃよ。これは当時としては大変めずらしいことだったんじゃ。

それから、降参(こうさん)した相手にもあたたかい手をさしのべる人物でね、敵(てき)として戦った相手でも、降参すれば自分の家来にして、それぞれの才能(さいのう)や能力(のうりょく)にあった仕事をさせたそうじゃ。
中でも真室川(まむろがわ)の鮭延(さけのべ)という殿様には、義光に戦争で負けた後、最上家の家老(かろう/家来の中でも特に偉い役職のひとつ)にしてもらったそうじゃよ。
質問:領地(りょうち/支配している土地)について教えてください。


ハセ博士:「むかしはとれるお米の量で土地の広さを計っていたんじゃよ。石高(こくだか)といってな、一石(いっこく)の米はおよそ150kg、量にすれば一升瓶(いっしょうびん)100本分ぐらいだったそうじゃ。義光の領地(りょうち)は57万石(ごじゅうななまんごく)で、これは豊臣家や徳川家をのぞく当時の大名の中では全国でも5番目にあたる石高なんじゃよ。実際の広さでいうと置賜(おきたま/米沢や長井など)をのぞく山形県の全部に秋田県の南部部(由利郡)を加えた広さということじゃな。」



>>山形県の地図

「むかしはだいたい100石で3人の家来(けらい)をかかえることができたと言われておるから、約17,000人以上の家来がいたということになるね。会社で例えれば全国でもトップクラスの大企業というところかな。」
質問:義光はどんな性格だったのですか?



ハセ博士:義光はとても神さまや仏さまを大事に考える人としても有名なんじゃ。
最上家の領地にある100カ所以上の神社やお寺に田畑やお米などをくれたり、建物を立て直したり、それはそれはたいそう大事にしたそうな。


▲寒河江の慈恩寺

例えば寒河江(さがえ)にある慈恩寺(じおんじ)はおよそ3,000石もの田んぼや畑をもらったそうで、あの有名な奈良(なら)の法隆寺(ほうりゅうじ)でさえ1,000石しか なかったのを考えると、山形のお寺や神社がどれほど大切にされていたかがわかるね。

 ◎改修された寺社
 ・羽黒/五重の塔
 ・山寺/立石寺
 ・天童/若松観音本堂

 

 ◎田畑を寄贈された寺社
 ・寒河江/慈恩寺 2,889石
 ・山形/光明寺 1,760石
 ・山形/両所宮 1,115石
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