山形の地酒|米鶴酒造

山形の地酒|米鶴酒造
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連載�1 「米鶴の香味の個性・特徴」
梅津 伊兵衛

 酒は、良く出来た酒ほど、その酒が生まれた土地の土地柄や造った蔵人の人柄が、その香味に反映するものである。言うまでもなく原料米、水、酒蔵の設備、使用酵母、酒母の種類、純米か本醸造かの製造方法など、全てが影響する。酒蔵の水と設備や酒蔵に住み着く微生物類によるものをまとめて、「蔵くせ」と表現することもある。そういう色々な個性やくせや特徴を備えたうえで、その蔵で出来た酒、全てに共通する独特の香味が、その土地の土地柄や蔵人の人柄がもたらす「夢とロマン」であり「酒文化」 である。
 毎年同じ最高の原料米を使用しても、酒の香味は厳密に言えば、仕込みごとに又貯蔵容器ごとに微妙に違うものである。その上、毎年気候の変化や稲作の出来不出来があり、醸造期間中の気温の差など、条件によって造った酒にも、微妙な変化が生じることは、日本独特の「並行複醗酵」という複雑なメカニズムも絡んで、仕方がない宿命とも言える。
 だが、これらの諸条件を超越して、毎年不変の個性の酒を出荷することが酒蔵の目指すところであり、そのためにこそ切磋琢磨し技術の研鑚に励んでいる。 日本伝統の酒造技術は長い歴史のなかで完成されており、もはや秘密もノウハウもないに等しい。だから良い原料米を仕入れて、真面目に酒造りに取り組めば、大抵は良い酒ができる。 問題は酒の香味の再現性である。毎年狙った通りの酒が出来るかどうかである。このあたりがプロの壁であり、酒蔵の技術レベルであり、蔵人の腕である。
 私の狙いは「清冽な雪国らしい、端麗ながら、やわらかでふくよか」な風味であり、酒の個性を女性の姿に例えれば「一見、おぼこで内気ながら、心のうちに火のような情熱を秘めた、雪国の清純な乙女」を彷彿する酒である。

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連載�2 「米鶴の酒造理念」

 酒は、蔵人の人柄を反映すると言われている。極言すれば「蔵人は、自分で酒を造ったつもりでいても、実は、米や醪(もろみ・米と米麹と水で仕込んで、搾る前の醗酵経過途中の状態)が、主の後ろ姿や蔵人の行動を見て、どんな酒になろうかな、と考えながら酒になっているのだ」となる。これは、理屈には合わない。米が醪が考えたりする筈がない。しかし結果的には、こうなってしまうから怖い。酒だけでなく民芸品には大抵通用する。
 米鶴では昭和59年から酒米研究会を組織し、本格的に酒米栽培に取り組んでいる。現在、蔵人と地場の農業青年とで、39名の会員が、20数町歩の田圃を耕作している。良い酒米を手に入れるには、これが近道だと思ったからである。ある蔵人は言う。 「私は、夏は田圃で酒米を育て、その米で冬は酒蔵で酒を造っているから、一年中、自分の酒造りをしている果報者です」と胸を張る。この酒米研究会で学んだ、大切な格言があります。「米は、百姓の足音を聴いて育つ」。そのお百姓が、百姓の仕事が好きで、稲が心配で、田圃に足しげく通う。そういうお百姓の稲は、美味しい米を実らせる、ということです。つまり、お百姓の人柄で米の味は決まると言っている。一つ理由をあげましょう。美味しい良い米を実らせるには、第一に反収を落とさなければならない。窒素肥料を減らす決断が出来るか。良い仕事のためには、犠牲を惜しまない良心を貫く職人気質。手抜きせず、わが子を慈しむように育てる、つまり人柄が決め手になると言うことです。
 酒造りにも全く同じことがいえます。麹室で徹夜したり、醪桶の側で夜を明かしてしまったり、そういう蔵人のいる酒蔵の酒は、人の心を打つものがあります。
米鶴の酒造理念は「酒は正直なもの。原料や製法に手を抜いたものは、必ず化けの皮が剥がれる。酒は蔵人の心を映す鏡である。蔵人の顔が見える民芸品を目指そう」。

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連載�3 「米鶴の酒造理念」

清酒(さけ)造りは 原料 − 良質な米 清冽な水と空気
そして何よりも 良心を貫く職人気質 − 「蔵人の心」である
「大自然との調和」をねがい  大自然の「わび さび」を愛し
大自然の前には 「無力な人間の分」をわきまえる
農耕民族を祖先に持つ日本民族の感性は 東洋の儒教精神の流れを汲むもので
人つくり 米つくり 酒つくり − すべてに通ずる
文明が極度の発展を遂げた 現代社会の中で −
力で支配する狩猟民族の 一見合理的に思える 欧米の思想よりも
非合理的に見える「浪花節」的な 人間関係を大切にする 日本の思想こそ
二十一世紀の 混迷する世界を救う平和の鍵として 注目を浴びる所以である
米と対話し 麹の息使いを感じとり 醪(もろみ)と語り明かし −
機械 器具 を通して 酒造りの職人の生きた血 を通わせる
清酒造りに 生命(すべて)をかけ 世界に誇る 美しい日本文化を
正しく伝承する 心意気が 人々の 心に沁みる清酒を 醸しだす
清酒は 正直なものである −
原料や製法に 手を抜いた まがいものは
目の前にいる きき酒の名人は ごまかすことが出来ても
多数の消費者の口と 月日の流れにさらされると 必ず 化けの皮が はがれる
− 清酒は 蔵人の心を映す鏡であり 分身である −

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連載�4 「日本の酒市場は世紀の壮大な実験場」 (1)

 フランスのワイン、ドイツのビール、イギリスのウィスキーなど欧米の伝統の酒は、頑なに伝統を守っている。日本では、戦中戦後の混乱期に、芋を原料に近代化学工業で大量生産したエチルアルコールを「甲類焼酎」 として、或いは、これに人工的に香味を付けて「合成酒」として飲用に供した。また貴重な米を原料にした清酒は、醸造効率を良くするために原料白米の「0.1%の酵素剤」の使用を許可した。当時としては、戦後日本の未曾有の困難な非常時で、仕方がなかったと思う。だが、これらの制度が戦後50年以上経過して、田圃が余って減反政策している豊かな飽食の時代にも、そのまま踏襲し続けている実態は、先進国として如何なものであろうか。「甲類焼酎」は、日本のハイテク化学工業技術の成果、カクテルのベースとしては無味無臭の素晴らしいアルコール飲料である。だが私に言わせれば、これは酒ではない。酒とは、酒が生まれた土地の土地柄や、造った人の人柄が、その酒の香味に反映して「夢とロマン」 の文化を醸し出すもの。いくら品質が優れていても、近代化学工業で大量生産したエチルアルコールには、夢もロマンもへちまもない。ビールも、日本のビールには麦以外に米、コーンスターチ等が使用されている(だから日本のビールはうまいのだ、と云う説もある)。またビールまがいの、どう違うのかヤヤッコシイ「発泡酒」もある。法律を改正する勇気のない、無責任な政冶家や官僚が「昭和23年に出来た骨董品的酒税法の改正を怠ったツケ」である。
 今一般的な大型酒販店の酒売場には、清酒として「純米酒」「本醸造酒」「その他の普通酒」と一緒に、超低原価の超合理化製造法による 「酵素剤で糖化した液化仕込みの酒」「米粉糖化の酒」等、どれがどれやら不明な表示のまま展示販売されている。此等の中から消費者は何を選ぶのか、まさに世紀の大実験である。

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連載�5 「日本の酒市場は世紀の壮大な実験場」 (2)

 近代化のアオリで清酒製造方法が超進化し、米を蒸さないで、タンクで煮て「酵素剤」で糖化してしまう「液化仕込み」という超低コスト(設備投資額は巨大)の清酒や、米の粉(精米中にできる副産物・一般的には「米ぬか」といっている)で造った清酒が「純米酒」「本醸造酒」や「その他の普通酒」と一緒に、いい加減な表示のまま、即ち、消費者から見て非常に分かりにくい表示のまま、一般的大型店酒売場に並んでいる。これらの区別は専門家でなければ殆ど見当がつかない。
 これは私に云わせれば「世紀の大実験」である。どれが良貨か悪貨か、悪貨が良貨を駆逐するのか、興味あるテストとも云える。「ビール」と「発泡酒」、「甲類焼酎」、「純米酒・本醸造酒」と「それ以外の清酒」や「合成酒」は、よく見ると小さい字で書いてはある。しかし「液化仕込み清酒」「米粉の清酒」「外国産米の清酒」等の区別となると、全く分からない。表示義務のない「既得権」と称して「ほほかむり」を決め込んでいる。いずれ消費者から告発されるのではないだろうか。他にも、壜詰めの時、一回加熱殺菌しているのに「生貯蔵酒」と呼ばれている清酒も、「生」のイメージで消費者に誤解を招くのではないか、と当社では「壜貯蔵酒」と呼んでいる。
 私は「類似品」や、従来の伝統の製法の概念を全く変えた「超近代化製法の清酒(私の理念では、液化仕込みの清酒は、伝統の並行複醗酵の清酒とは別の製法の、単醗酵に近い全くジャンルの違う酒である)」を「まがいもの」だから排除しろと言っているのではない。原料や製造方法くらいは、一般消費者が見て「分かりやすく表示」すべきだと主張してるのである。せめて「酵素剤使用」「米粉使用」「外国産米使用(産地名)」くらいは明確に表示すべきであろう。酒税法や通達の問題以前に、蔵元の良識が問われると思う。
(以上)

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連載�6 「接待は悪か?」

・・ このままでは日本の食文化は亡びる ・・

 官々接待自粛以来、まるで「接待は悪」のイメージで、飲食店街は、灯の消えたような寂しさである。このままでは日本の食文化は、おかしくなってしまうのではないかと心配だ。居酒屋はもとより、特に高級料亭ほどダメージがひどく、「食文化」ばかりかそれに伴う「衣」や「住」の文化まで、滅亡の道をたどっているような気がしてならない。
 日本社会は、伝統的に「良き人間関係」を優先させる「共同体」意識が「道義」の基本だから「恥を惜しむ心」が尊ばれる、と私は思う。農耕民族の「米作り社会」こそ、共同体としての精神構造の根幹をなしていることが、日本民族の特徴であり、また弱点でもある。この弱点ばかり強調し「古くさい」と一刀両断したのが「無責任な戦後民主主義」による「洗脳」で、結果的に共同体意識がばらばらになって、恥の感覚と思考がマヒし「道義の崩壊」を招いたと私は見ている。明治以来、誇り高い「日本の伝統と道義」が、この特徴と弱点の上に成り立っていることを自覚して近代化を考えないと、取り返しのつかないことになる。世界に誇る日本文化までが亡びるのではないかと不安でならない。
 以上の観点から日本文化のためにも、日本人にとって、人間関係の潤滑油として接待は不可欠である。「接待」という言葉には「料亭」とか「ナイトクラブ」とか、贅沢くさい秘密めいた、昔から言われている「飲み・打つ・買う」といった、なにかアンダーグランド的なイメージが付き纏うのは否定できない。だが、やたらに清廉潔白を主張すると、政治にも経済にも活気が失せる。だいたい大人の社会はキレイゴトだけでは成り立たないことをハッキリ宣言すべきだと思う。米国の「禁酒法」の暗黒の歴史が証明するように、聖人君子の生き方に、人間社会は耐え切れないのが宿命だと思う。21世紀を、日本人らしく個性的に生きるには、少々の不合理や浪花節的なツキアイも、先人が教えた「知恵」と認める心の広さが欲しいものだ。今更、官々接待復活は出来ないだろうからせめて、法人の「税法上の交際費の枠」を大幅に、出来れば三倍くらいに拡大することを強く訴えたい。景気回復の決め手にもなろう。

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連載�7 酒造りの心は「大自然との調和」(1)

 日本人の心の奥底には「大自然との調和」への限りない憧れが無意識のうちに根付いている、と私は思っている。それは自然の「わび・さび」に安らぎを 覚える心情とか、お坪、盆栽或いは華道、茶道、書道、舞踊などの基本的心得からも理解できると思う。武道にさえ、この心情が通じているのではないだろうか。むしろ「日本の文化」全ての基本が此処にあるのではないかとさえ思う。 日本人のこの「遺伝子」は何処から来たのだろう。
 日本国の誕生は、最初に「豊芦原の瑞穂の国」の実り豊かな島国があって、独立戦争も独立宣言もなく、自然に出来たという感じである。住民が困難に感じる課題は風水害くらいなもので「冶山冶水」こそ永年の願いであろう。 でもこれだけは、いくら人知を傾けても完璧にはいかない。祈るだけである。あらゆる縁起の良い神様仏様を総動員して祈りを捧げ、大自然の怒りを鎮めるしかない(「八百万の神」を受け入れる心の広さはこの辺にあるのではないか)。大自然の摂理の前には、人間の無力を思い知らされ、「人間の分」をわきまえる知恵、即ち「謙譲」或いは「妥協の思想」を学んだのではないか。
 欧米の場合は、どうやら「自然化学の力」で大自然を支配できるという「傲り(おごり)」を持っているような気がしてならない。 このあたりが狩猟民族と農耕民族、或いは闘争的な肉食民族と温情的な草食民族の違いなのか。それとも大陸と島国の違いか。
 酒造りにもこの差が感じられる。洋酒は糖化(澱粉に糖化酵素が作用してブトー糖になる変化)と醗酵(ブドー糖に酵母菌が作用してアルコールと炭酸ガスに変える変化)を別々にやった方が化学的だとして、別々の糖化タンクと醗酵タンクで作業を進めている。ところが日本では、自然に酒が出来る大自然のメカニズムをそのまま技術に完成させてしまう。つまり糖化と醗酵を同じ容器で同時に進行させる、欧米では不合理といわれている複雑な手法を「並行複醗酵(へいこうふくはっこう)」という日本独自の技術に仕上げて採用している。結果的にアルコールの収得量(同じ原料からアルコールの採れる量)は、不合理と言われている日本の「並行複醗酵」が圧倒的に高いのである。 この辺が日本民族のスゴイところで、日本酒造りが「大自然との調和」のゆえんである。
(つづく)

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連載�8 酒造りの心は「大自然との調和」(2)

(伊兵衛のページの2.3「米鶴の酒造理念」参照)


    酒母   初添   仲添   留添   合計   kg
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
総米 110  230  410  750  1500
蒸米  80  160  220  600  1160
麹米  30   70   90  150   340
                            リットル
汲水 130  200  520 1050  1900


 上は標準的仕込み配合の一例で昔の十石(六尺桶)今の1.5トン仕込みの設計図である。つまり酒母(「しゅぼ」或いは「もと」と呼ぶ)は30kgの麹と80kgの蒸米で計110kgの白米と130リットルの水で仕込むことを表す。酒母は現在は、純粋培養の優良酵母菌で育てる「速醸(そくじょう)酒母」が多いが、純粋培養の技術がなかった昔は、大気中の天然の酵母菌を捕らえて育てる「生もと(きもと)」系が主体で「山廃もと(やまはいもと)」もその一種である。酒蔵のなかに天然に住み着く酵母菌を取り込むのだから容易ではない。しかし、巧くいけば、その蔵の個性がもろに出て素晴らしい酒ができる。その意味からも、日本の酒造りは「大自然との調和」が主題といえる。現行の「純粋培養酵母菌」で仕込んでも、開放タンクだから、蔵に住む酵母菌や微生物が飛び込むので、蔵の個性が表れる。当然ながら「純粋培養酵母菌」を使用しない「生もと」の方が、蔵の個性が強烈に出てくる。反面、酒母の育成が相当に難しい。この辺りを如何に巧みに手順に盛り込むかが、これからの個性化時代の重要な課題であろう。 
以上の点から、蔵に住み着く諸々の微生物類を「幕下菌」と呼んで重要視したい。対する「幕内菌」は「純粋培養優良酵母菌」である。いずれ「幕下菌」が出世して「幕内菌」に格上げされるであろう。逆転する日はそう遠いことではないような感じを抱いている。 
こうして出来た酒母をもとにして、大きなタンク(昔は六尺桶)に「麹と蒸し米と水」で三段階の仕込み(三段仕込み)を経て一本の醪(もろみ)を完成するのが清酒の特徴で、洋酒の一発で大きく仕込む方法と根本的に考え方が違っている。

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連載�9 酒造りの心は「大自然との調和」(3)

  前にも述べたが「大自然への畏れ」を心に抱く日本民族と、「自然科学の力で合理化」を計る西欧民族の違いが、酒の仕込み方法にも表れて、清酒は三段仕込み、に対して洋酒は一段で完了する。日本の「並行複醗酵」と洋酒類の「単行醗酵」についても前に述べたが、「単行醗酵」のワインが、殆ど原料で酒の「型」「格」が決定されるのに比べ「並行複醗酵」の清酒は、同じ原料でも、人が変わると酒まで別物になってしまう「不思議さ」「面白さ」「奥深さ」は民族文化の差、或いは「狩猟民族」と「農耕民族」の差、と断定は出来なくとも、全く無関係ではないような気がする。
 前回に掲載した「仕込配合表」に従って、一段目が「初添(はつぞえ)」二段目が「仲添(なかぞえ)」三段目が「留添(とめぞえ)」と、一段毎に醪の量が約二倍に増え、つまり、三段階で倍、倍、倍と増量して仕込みが完成する。この数量の経過は、仕込配合表の総米や汲水の数量からも理解できると思う。しかも初添の翌日は仕込みを休んで、酵母菌を更に増殖させる「踊り(おどり)」の操作を行なう。従って「初添、踊り、仲添、留添」と四日がかりで、三段仕込みが完了することになる。
 何故このような手間のかかる手順をとるのか。これが「大自然との調和」である。即ち折角捕えて育てた酵母菌を、いきなり大きく仕込むと痛めてしまう恐れがあるから、酵母菌に優しく、自然に少しずつ大きく、大切に育てようとする「大自然との調和の心」である。今は醸造学的に優れている「純粋培養優良酵母菌」が大量生産出来る時代なのに、なにか「不合理」または「浪花節」的、或いは「非進歩」的かも知れない。しかしこれが日本民族文化の基本的な「特徴であり弱みでもある」ことを認識し、弱みを改善しようとする合理化のあまり「伝統文化の基礎」までも無視し破棄するようなことがあってはならない。「日本の風味」にこだわるには、敢えて不合理や無駄も容認する「心の広さ豊かさ」を伝承するのも、伝統の心を大事にする「酒蔵」の責務と思っている。