米田ノート

▼第二十話「今時の葬儀を思う時@」

 最近ツイッターを始めました。日本中の色々な人が何気なく発する言葉に心惹かれて、私も楽しく『つぶやき』をしております。仕事の関係で、葬儀・石材・仏壇等の業界関係者や僧職にある方などの『つぶやき』をよく読ませて頂きますが、そのつぶやきの中に『直葬(ちょくそう)』という言葉を見る事が、最近増えてきました。
 意味は?というと、亡くなった方を病院から(現代は、八割以上の方が病院で亡くなります)そのまま火葬場に寝台車で運び、火葬をして『骨壷に遺骨を納めるだけの作業』をすることを言います。通夜も葬儀も告別式もありません。その一連の行動の中に宗教的な作法は一切存在しないのです。
 今までこういった方法は、身寄りの無い人、生活保護を受けている人が亡くなった場合などに適応されましたが、現在首都圏やその近郊では、三割くらいの家族が『直葬』を希望されるそうです。その為か、「ちょくそう」とパソコンで検索すると多くの葬儀業社がそれに対応したページを持っていたり、また直葬のみ扱う業社も現れるようになったりしています。そうした中で「このままでは生活できなくなる。」と嘆かれる葬儀業者も有る様に聞きます。
 この十数年で全国的に一般化した、『葬儀社の会館』を利用する葬儀の売り上げに比べて、『直葬』では五から十%ほどの売上にしか成らないのですから、収益が上がらないのは確かでしょう。
 しかしなぜ、この様な極端な方法が出て来たのでしょうか?
第一には出来るだけ不要(?)な出費を抑えたい、と言う事も有るでしょうが、その他には葬儀社の不透明な料金体系と共に、葬儀料金とは別に僧侶に渡す『お布施』と言う物に対する疑問も有るのかも知れません。
 それと同様に、かなり多くの人達が『宗教』に対して、それほどの必要性を感じていないことも大きな要因の一つに為っているのも確かな事だと思います。
 ただ「お金が掛らない」と言う理由や「坊主が嫌いだ」だけで、故人の「死」を友人知人の誰にも知らせず、どなたの会葬も無いまま『宗教』さえも拒否して、機械的な作業を行うように火葬・集骨を行っても良い物なのでしょうか?
 『それに対する答え』とは口幅ったい言い方になるかも知れませんが、最近私の町内で行った葬儀は、たぶん皆さんが考える理想に近い儀式に成ったのではないのかと思います。
 それは只、昔ながらに通夜を自宅で行い、葬儀・告別式はお寺の本堂で上げ、そのままお寺で法要もしてしまうと言う、本当に単純なことなのですが、ご近所の奥さん・ご主人方の協力の下、葬儀を取り仕切る葬祭ディレクター・仏具屋・納棺師・花屋・御茶屋・タクシー会社などの各業者の皆さんの適切な行動で、本当に心温まるご葬儀が出来たと思っています。
 今思えば、この度お亡くなりになったご主人の葬儀は、最愛の一人息子を亡くされた時からこうなる様に成っていたのかも知れません。二年前に息子さんが亡くなった時は、ある冠婚葬祭専門の業者の段取りで、通夜・葬儀・告別式・法要のすべてが会館で滞りなく行われました。それはそれなりに立派な葬儀であり、何の煩わしさも無い、行き届いたものでした。
 でもそれは、私が今思うには、所謂形式的に進むだけの儀式だったように思います。
 もともと葬儀は入学・卒業式や結婚式などと違い主役が表に出てこない、どちらと言うと主役の存在しない儀式です。そう言う意味では「何か異質な感覚」と言うのは否定できないものが有ります。
 それは、突然にやって来る『家族の死』と言う現実に、残された身内の人たちが、どうすれば良いかを充分に考える余裕も無いままに「松・竹・梅のセットが有りますから、その中から宜しいのをお選びください」的に形式化されて進む儀式がそこに存在するからなのかもしれません。
 では、何が違ったのか・・・
 ページの余白が少なくなって来た様なので、続きは来月号にさせていただきます。
2010.07.15:yoneda

HOME

(C)

powered by samidare