米田ノート

▼第三十三話「感謝のこころを考えるA」

 八月三十一日に私の所属している法人会が主催し、宮城県と仙台市の教育委員会の後援で、とても興味深い講演会が開催されました。その講演の内容は、七十歳になった現在も現役のプロゴルファーとして活躍されている、神戸市在住の古市忠夫さんの『大震災が教えてくれた、人生で一番大事なこと』というお話でした。
 古市忠夫さんという人は、十数年前までは神戸市内でカメラ店を営んでおられる、ただの普通の『おっさん(関西風に)』でした。しかしそれは『十六年前に突然訪れた、あの阪神・淡路大震災が来るまでは』と言う但し書きがついています。今も、そしてその当時も神戸の中心部に住んでおられた古市さんは、店舗兼用の自宅を、震災直後に発生した火事によって焼失しました。ご家族は古市さんと共に、なんとか難を逃れることが出来ましたが、昔から慣れ親しんだ街は、仲の良かった多くの友人達や、それを取り囲んだ風景と共に無くなってしまったのです。
 私もあの日の事は忘れる事が出来ません。お正月の『松』が取れたばかりの寒い朝、何気なく目を覚ましテレビを点けてみるとその画面には、一杯に広がった阪神・淡路大震災の風景があったのです。
 当時、私の妻の両親は大阪府に隣接した兵庫県の町に住んでいました。その年の年末年始も例年の様に家族で妻の実家に里帰りをし、神戸市に住む知人に逢う為に阪神高速道路・神戸線を走ったばかりだったのです。その巨大な構築物が国道四十三号線に倒れ込み、波打っていると言う想像も出来ない様な風景を、テレビは大きく映し出していたのでした。
 今思えば、そうした風景の中で、古市さん達は懸命に動き回って居たのです。訳が解らないまま、近所の人々を助けるために瓦礫を掘り起こし、声を掛け、一つでも多くの命を救おうと頑張っていたのです。
 大きな災害は人間の思考能力を奪ってしまいます。何をしたら良いのか、何をすべきなのかは薄々判ってはいても、行動に移す力も奪ってしまうようです。そうした環境の中で古市さんは故郷の復興のために全力を傾け、動き回っていました。それはある面、どうして良いか解らない自分のこころの平静を、行動することで保とうとしていた故なのかもしれません。
 そんな生活の中で、すべてを失ったと思っていた古市さんの目の前に、無傷の愛車が発見され、戻ってきました。そのトランクには、若い頃から趣味で楽しんでいたゴルフのバックが有ったのでした。後日そのゴルフバックが、古市さんをプロゴルファーの道に誘ったのです。
 五十歳の半ばを過ぎ、もう数年で六十歳になろうとしている人間が「プロゴルファーになろう」と思う。それは普通の思考で思い付く発想ではありません。毎年二千人もの若きプロ志願者がプロ試験を受験し、その中の五十人程しか合格しないのです。誰が考えても無茶(無駄)な挑戦です。でも、古市さんはそれに向かって走りだしたのです。若い人の様に練習が出来る訳でも有りませんし、体力も有りません。それでも合格を信じて挑戦したのです。
 そこには、無理だと判って居ながら多額の費用を要するプロ試験に送り出してくれた、古市さんの奥さんや娘さんに対する『感謝』のこころ、応援してくれる近所の仲間に向けた『感謝』の気持が彼を前に向かわせ、未知なる力を出させたのでしょう。
 古市さんは講演の中で『感謝力』と言う言葉を何度も話されました。『ありがとう』と素直に言える自分を周りの人々が創ってくれたお陰で、力のある若者でも簡単に受かる事の出来ないプロ試験に合格して、晴れてプロゴルファーに成る事が出来たのですと、臆面もなく話していました。
 古市さんは、東日本大震災が発生した直後から東北に来られ、目に見えない場所で活動してきました。今回の講演の数ヵ月前も我々の仲間の前で講演をしてくれました。そうしたボランティア活動をしながら、現在も自治会長として地元の消防の指導に取り組み、地域住民の一人で有る事を常に心掛けて活動されておられるそうです。
 講演が終わった後、古市さんは「会場に来られた四百人近い人々が、真剣に身を乗り出すように聴いてくださるので、自分自身も思わず力が入りました。いつもより良いお話が出来たように思います。」と言っておられました。しかし、これも古市さんの『感謝力』が為せる業かもしれません。
 私自身も、この文章を毎月読んで頂いているみなさんに『感謝』です。

*古市忠夫さんをモデルにした「ありがとう」という映画があります。
2011.09.15:yoneda

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