米田ノート

▼第三十八話「復興を考えるお話、其の一」

 昨年の年末に近いある日、私の所属している宮城県倫理法人会の先輩から「世界中から集まったクリスマスカードを被災地の小学生の子供たちに手渡そうと言う活動をしている団体からの依頼で、サンタクロース役を探しているのですが(『米田さんは似合いそうだから』とは言われていませんが)如何なものでしょう?」と言う電話が有りました。何も考えずに軽く返事をしてしまう私のことです、電話口で直ぐに「はい、何をすれば良いのですか?」と言っていました。
 でも、良く考えてみれば、翌日はその先輩の自宅の石塀工事の仕上げが有ったのです。まぁそれでも、既に石材部分の工事は完成していましたので、残りの作業は職人さん達にお願いすることにして、次の日の私は『サンタさん』に徹することにしました。
 翌日の朝早く職人さんと最終の打ち合わせをしてから先輩の会社に行くと、部屋中にクリスマスカードが入っているのだろうと想われる、小学校の名札の付いた紙袋が沢山置いてあります。「え!これだけ全部持って行くのですか?」と、かなりびっくりの私。
「いやぁ、これ全部は無理でしょう。」と、先輩。今日も入れて、あと三日で小学校は終業式です。二人で話し合って、今日はできるだけ遠い所の学校、南三陸町の志津川地区の五つの小学校行くことにしました。残りの紙袋は、他のサンタさんにお願いすることにします。
「アポ無しではマズイですよね?」と聞くと。「一応は各地域の教育委員会を通して、カードを希望した学校に持って行く事に為っているから大丈夫とは思うけど、電話をしてみますかね?」との事でしたので、最初に伺う志津川小学校に、訪問する旨を電話で連絡しました。他の四校は移動時間を見ながら連絡することにして、さあ出発です。
 霙の降る中、志津川小学校まで行って判ったのですが、五つの小学校の内、今までと同じ場所で授業が出来ているのは三校だけで、一つの学校は近くの小学校に間借り状態、もう一校は登米市内の廃校になった校舎を利用して、授業をしているとの事でした。
 暑い夏の日に、日本各地から来てくれた多くのボランティア達の活動で、きれいに整理されただろうと思われる、基礎コンクリートだけの街並みは、今は少しの作業員が仕事をしているだけです。鉄の骨組みだけになった南三陸町防災対策庁舎を右に見ながら、何も無くなった街並みを泥だらけになった自家用車で走り抜け、残り四つの小学校を順番に訪問しました。
 訪問したどの学校の校長先生も、私を快く迎え入れてくださいました。お茶を頂きながら、震災時の様子、子供達の事、今必要なもの、これからの予定など、初めて来た『へんてこサンタクロース』に色々とお話をしてくださいます。その上、校長先生をはじめ職員室の皆さんが「ありがとう」と言ってくれるのです。とんでもない事です。有難いのはこちらの方です。赤い帽子を被っただけの『臨時サンタ』は恐縮のしっぱなしでした。
 その中でも特に心に残ったのは、校舎が全壊状態で、近くの小学校で間借りして授業をしている学校の、女性校長先生のお話でした。
 放課後の校庭で子供達と遊んでいた先生は、海の方から聞えてきた、何とも表現のしようのない轟音に驚いたそうです。その直後、今まで経験もした事も無い大きな揺れの地震。大きな津波が来ると思った彼女は直ぐに、校庭で座り込んで動けなくなっている子供達を連れて高台に逃れたそうです。その高台で見たのは三階建ての校舎をスッポリ飲み込む、校舎の高さの倍も有ろうかという大津波だったのです。それらのお話は、私が経験した地震とも、石巻方面や閖上地域で聴いた話とも全く違う、心に迫ってくる経験談でした。
「ところで校長先生、新しい学校は当然高台に造るのでしょうね?」と私が尋ねると「いえ、今までの校舎を修理して使おうと思っています。」と思いも寄らぬご返事でした。
 それは何故ですかと訊ねると、新たな学校建設用地を探すのと、校舎の建設で何年もかかる様な事をして、その上学校の場所まで変わってしまうと、学校周辺のコミュニティが存続出来無くなると、先生は言われるのです。
 漁師は朝の早い仕事ですから、海の近くに住むしかない。海の仕事に、遠距離通勤は無いそうです。そうすると、当然家族も一緒に住みます、子供もいますので学校が必要です。学校が無かったり、何処かに動いてしまったりすると、その地域のコミュニティは崩壊せざるを得ないそうです。
「それは、はっきり言って『復興』では無くなってしまいます。」先生はそう言われるのです。
 そうか?「復興」って何なのだろう?
2012.02.15:yoneda

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