米田ノート
▼第四十三話「復興を考えるお話、其の六」
先日、次男坊の同級生のお母さんが山形から送られてきた「サクランボ」を手に遊びに来ました。「そうか、もうそんな季節になったんだな。」などと思いながら、赤い実を口にした。
この季節でしか味わえない、甘酸っぱい果実を食べながら「この味、久しぶりに食べたような!昨年はバタバタしていて、食べることが出来なかったかな?そういえば、去年の今頃は、自分は何をしていただろうか?」と、ふと考える。そう言えば「正月・節分・花見・新緑・・・」はたまた「寒い・暑い」と季節が変わるのを肌で感じたり、目に入る風景が変わったりする毎に、そんな風に「あの時は・・・」と考えるのは、それは三月十一日に起こった、あの自然災害からの様な気がする。
あの日からすべてが大きく変わってしまった。目に見えていた景観が大きく変わり、街並みが変わり、仕事の内容が変わり、人間一人一人の生活をも、変えてしまった。友人達との談笑の中でも、「去年の今頃は?」とか「あの日は?」などの話が出てくる。
震災後、多くのカップルが『恋人』と言う形態から、それまでは進むのを躊躇していた『夫婦』と言う形象に進んだという話を聞く。私の三人の息子の友人達の間でも、三組の『夫婦』が出来たようだ。『大震災』とそれにまつわる社会の変化が、彼らの背中をチョット押したのか?
あの極限に近い状況が、社会を形成する最小の単位である『夫婦』を数多く作らせた。それまでの平和で、危機意識の薄い生活だった時は、男の子も女の子も、一人で何不自由暮らすことが出来た。あの日からの『何度も襲い来る巨大な地震と、激しい津波』は、一人でいる怖さ・寂しさと、極度の緊張感で、彼ら彼女らの心に何かの感情を際立たせた。「一人より、二人の方が安心?それなら、いま結婚しなければ」と言う気持ちにさせたようだ。
またその反対に、多くの『別れ』も生み出している。極限状況が何かの『気付き』を起させ、今まで踏み越えることが出来なかった領域に足を進ませる。「この人と一緒では安心できない」と言う気持ち。また、災害と言う環境が人々を振り回し「私を見てくれない。守ってくれていない」と思わせる結果になり、『別れ』に進ませることになった様にも聞く。
震災後被災地に流れ込んできた「義援金・見舞金」なる大量のお金が、不幸の元凶になった様でもある。一年四ヶ月を過ぎた今でも、『失業保険金』などの生活補償金を受け取りながら働かない人が居るらしい。働かないだけならまだしも、毎日のようにパチンコ三昧とも聞く。そんな働かない夫を見て「昔は、こんな人じゃなかった」と思う妻が、「この人と一緒にいたら、自分までダメになってしまう」と『離婚』を決意したという話もあった。
知り合いの弁護士さんは「統計的には『結婚』の数値は、確かに増えているそうです。『離婚』に関しては、はっきりとした数値では判らないけど、私自身の実感として・増えている様に思う」と、言っていました。
確かに、とても悲惨で、心が壊れてしまう位『かなしい』出来事が起こり、自分の体・心の一部であった肉親が亡くなったり、行方不明になったりもした。心の傷の深さは人それぞれ違うだろう。簡単に癒せるモノでも無いだろう。だが、何時までも心の中に深く沈んでいる訳には行かない、何処かで立上らなくてはいけない。
震災から一年半が過ぎようとしている、このところ私どもの仕事も、取り敢えず壊れているお墓の修理・補修から、建て替え・移転・新設の方に向かっている。震災直後の「とにかくお参りできるように。」と言う思いから、「心から供養したい。」と言う方向に向かっているのか?『お墓』と言う、目に見える形で、自分の心を具現化することで「さあ、立ち上がろう。」と、心の中にけじめを着けようとしている方が、増えて来たのかとも思う。そう思うのは、私の思い過ごしなのでしょうか?
被災地の企業、農業・漁業への補償・援助も大切。個人への義援金等の補填も必要。エコカー減税で景気を刺激するのも良いかもしれない。が、それと共に、被災された方への心の援助として『ご供養支援金』とか『ご先祖復興資金』なるモノも、有ったらいいな、と思うのは、石屋のおっさんのつぶやきでした。
2012.07.14:yoneda
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