よっちゃん堂のあくがれてゆく日々 

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酒を控えて一週間。

夜が長くなりましたので、『石の花』坂口尚を読む。3回目かな。

旧ユーゴスラビアを舞台とする戦争漫画です。
ナチス、侵略、略奪、解放、独立、自由・・・。
時代が変わってもやることはあんまり変わらないのでしょうか。


以下勝手に抜粋。

第五巻 開放編 P.136〜 ナチスの将校マイスナー大佐のセリフ

きみは まだ人間を信じているのか あの人間たちを!

いくら 化粧や高価な服で身を装っても 
いくら 栄養剤で身体の健康を保っても
いくら 知識を詰めこんでも

食べ物が 暗い胃袋の底で不消化のまま ドロドロと塊になっているように
野心や うらみ 嫉み 憎悪がうずくまっている

卑しく粗暴で野蛮……原始人のままだ。

科学技術がどれほど進歩しようが
あいも変わらぬ野蛮な者たちがこの社会を形作っている

そういう社会から犯罪も争いも無くなるはずがない!

人間は 思想(イデオロギー)を発明し宗教をも発明した

しかし真の平和はやってこない むしろ争いの種子になっている
思想(イデオロギー)は思想(イデオロギー)とぶつかり
一つの宗教さえ二つに割れ 宗派を生み 争う
同じ平和を求めて この始末だ 

なぜなら 人間は 公平に 客観的に 判断することなど
とうてい出来ない具合になっているからだ

人間は 伝統やら 慣習の衣を 意識しようがしまいが 着せられている

ある家で生まれ ある町で育ち ある国で働き ある人に出会い
ある本と語り・・・・・・・・

いつも ある条件の中で生きている


いうなれば この世の中は 無数の偏見がせめぎ合っている海原だ
渦巻き 逆巻き 波は激しさを増しこそすれ 静まりはしまい

・・・中略・・・

民衆は 抽象的平和論より 現実に足りないものを補う力を求める
女が弱者を支配するよりは 強者につくのを好むように

民衆も 自由を受け入れるより 支配者を好む・・・・・・

自由・・・・・・・・・

生まれたとき そなわっていた自由な心を
不安と 混乱の世の中で 持ち続けるというのは やっかいなものだ

絶え間なく つきつけられる問いに
何が善で 何が悪かを
自由な心で 自ら選らばなければならないということは 重荷だ

しかも 生まれたときから 何色にも染まっていなかった 自由な心は
次々に ある条件という 衣を着せられていくんだからな

世の中はますます複雑になっているし
いくつもの 思想(イデオロギー)の道ができ
いくつもの 宗教の花が咲き
いくつもの 神が手まねきする

そのひとつひとつを 自由な心で選ぶというのは 
とてつもないエネルギーがいる

そんな自由は いっそ誰かに預けてしまった方が 楽なのだ
ある国家に ある宗教に ある伝統に ある慣習に

自ら問い 自ら悩み 自ら選ぶ 自由より
ある権威に 従ってしまった方が 楽なのだ

やがて どこまでが 他人の不正で 
どこからが 自分の不正なのかも わからなくなる

その方が 自分を責めずにすむし 心安らかに暮らせるじゃないか

人は パンのみでも 生きられてしまうものなんだ

また パンを与えてくれる者が 正義と思わなければ 生きていけない

たとえ 反抗を試みても 

この複雑で 迷路だらけの 世の中を相手じゃ
自らの非力を 思い知らされるだけだ

どうにか 仲間らしき人間たちが 集まっている場所を見つけ 駆け寄ると

やはり 未消化の塊をかかえている 人間たちばかりだ

なじったところで その人間たちと 自分は
本来 少しも違いはないのだから
鏡の中の自分を 責めていることになってしまう

やがて 疲れ あきらめ 
人間は 群れから離れるよりも
群れの中に自分を消す方が 安心できると気づく

人間は 自由より 何かの奴隷でいることの方が
どんなに ほっとするかもしれないのだ

(ドイツ人の多くがナチスに良心を預けたように・・・・・・・)

人間は・・・・・・・・・
風の色を 理解しようとせずとも 生きられるんだよ・・・・・・・・・
『黒パン俘虜記』 胡桃沢耕史著 文春文庫 

なかなかインパクトのある表紙ですな。。。

蕎麦屋の宴会仕事の折、親方の本棚を漁っていると
目に留まりました。

読み始めると止まんなくなって。

人間の一生が、国家間の都合で右にも左にも上にも下にも振り回される。

その置かれた状況の中でしか生きられないことが悟られてから
どう生きるのか考える。
これも一種のたくましさでしょうか。

それにしてもすごい内容でした。

*一部抜粋*

『運命は 従うものを 潮にのせ 逆らうものを 曳いて行く』

P110