ぶっくぶくの部屋

ぶっくぶくの部屋
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所用があって大峠レンボーラインを通ってきた。
ちなみに、この「大峠レンボーライン」というのは、
オレが勝手によんでるわけではなくて、開通した時に
一般公募して選ばれた正式な愛称。
で、いつもの道を快適に運転していき、米沢から喜多方
に向かう最後のトンネルを抜けてから様相が変わった。
いつものループ状に下っていく道じゃなく、まっつぐ
つながっている。
ああ、そうだ、この道今月全線開通したんだっけ。
うむ〜、なかなか快適な道路だ。
旧道より西の山側を迂回してはいるが、直線的で
快適なせいか、会津との距離がまた一段と縮まったような
気がする。
それにしても、計画段階から数えると30年ぐらいかかった
んじゃないかなあ、この道路。
そう考えると、道路インフラの整備ってかなりの年月を
要する仕事なんだねえ。
かたや同じ30年級になりそうな東北自動車道も、工事の
進捗がようやく目に見えるようになってきた。
新幹線と高速道路の二大動脈が米沢に通う日も近い!?
でも、念願かなった日には運転免許ないかも、との、
主に60歳代以上の方々の不安話もチラホラ…。
ちょっとシャレになんないかもなあ。

File No.174
『世界夢の旅 BEST50』(講談社 1600円)
オススメ度★★★☆☆

活字ばかりが本ではない。
たまには気分転換で写真集でも眺めようかなあと思って
ひっぱり出してきたのがこの本。
この世にこんなところが本当にあるのかと思うほどの
絶景のオンパレード。
写真を観ながら旅に夢を馳せるのにピッタリ。
テンションが少々下がり気味の日曜の夜にピッタリ。
テンションが少々上がる週末の夜にもピッタリ。
(ちなみに、オレは週末の夜に放送される「世界まち
歩き」をこのごろ欠かさず見ることにしている。
録画してでも見る。自分が旅している気分になれるん
だよなあ)
しかし…
この本に載ってる50か所、どこにもオレは行ったことがない。
この先、行ける見込みもあまりない。
想像を超えるような絶景に出会うと、人は人生観も変わると言う。
そういう意味では、世界中を旅している人から比べると、
オレなんてしょせん井の中の蛙。
想像を超えるような感動が少ないから、ものの見方というか
捉え方、受け止め方のフレームが小さいんだな、きっと。
うむむ、楽しい想像の旅だったのが、だんだん自己卑下になって
きてしまった…。

気を取り直して。
この中で、どこに行ってみたいか、と自問すれば。
間違いなく一番は「ナラーバー平原」。
場所はオーストラリアの南西。
説明文を引用してみる。
「一望千里の広野がグレートオーストラリア湾に面する海岸で
突如終わり、一気にダイナミックな断崖となる」
これを本当に目の当たりにしたら、オレもきっと人生観変わるかも。
説明文の最後に
「パースから車で2日間ほどかかる」!
うっぷっぷ、そういう距離感がまずわからん。
じゃあ次。
砂漠の摩天楼「シバーム」。
ユネスコ世界遺産の全集を買った時、数ある中でも、ここに
目が釘付けになった。
場所は「イエメンの首都サナアから空路でサユーンへ。そこから
車で…」聞いたことない地名ばっかで、どのへんにあるのかも
よくわからん。まあ、中東ぐらいはわかるけど…。

まあ、夢の灯火さえ細々と絶やさずにいれば、人生どうなるか
わからんから、行けるチャンスもひょっとしたらあるかも
知れない、と自分自身に言い聞かせるしかない。
「その夢もそのうち眠ったままになっさ」と悪魔のような声も
聞こえてくるが…。


「暑さ寒さも彼岸まで」とはよくぞ言ったもの。
今日は彼岸の中日。
米沢は最近数日しのぎやすい日が続いたが、
それでも今日は一段と涼しい、というか肌寒い。
超暑がりのオレとしては、この気温15度前後が
ジャストフィットなのだが…。
昨夜来の雨も今日になって小糠雨に変わり、絶好の
露天風呂日和とばかりに、とある温泉へ。
シトシト雨が降る中、温い露天風呂に浸かっていると、
妙に心が落ち着いて来る。
やっぱ、露天風呂は雨の日がサイコー。
他のお客さんも少ないし。
実はオレ、「自転車狂い」の前に「温泉狂い」なんで。
県内44市町村(当時)全湯制覇チャレンジの最中なんざあ、
まるで何かにとり憑かれたかのよう。
今だったら、パワーも時間もなく、到底かなわぬことだったろう。
まあ、下らないと思うようなことでも、やれる時にやんないと、
なあ〜んも出来ないで終わっちまう、と、過去(と未来)の愚行の
数々を無理矢理意義付け始めている今日このごろ。

File No.173
『十三人の刺客』大石直紀(小学館文庫 552円)
オススメ度★★★☆☆

映画『十三人の刺客』、いよいよ今週土曜日封切りだなあ。
PR映像の出来も良いし、庄内映画村でのロケ、そして、
主演の役所広司をはじめ、市村正親、平幹二郎、松本幸四郎、
内野聖陽、松方弘樹などのベテランキャストとあって、
前評判も上々のようだ。
オレも観るつもりだが、その前に読んでみようかと…。
結果は、ちょっと失敗だったかなあ〜。
内容が面白くないワケではない。
「七人の侍」を彷彿とさせるような時代活劇で、エンター
テイメント性も高く、なかなか面白い。
でもね、当然のことだけど、映画のスジが全部わかって
しまうのよ、コレ。
原作から脚本をおこしたものだと、脚色・アレンジの妙も
楽しめて、映画の方が良かったりするケースもあるんだけど、
これはもう、そのままってカンジ。
「映画ノベライズ版」と銘打ってるゆえんでもあろうが。
単刀直入に言うと、「映画を観る楽しみが少しそがれて
しまった」というところかな。

時は江戸後期。
明石藩江戸家老間宮図書が割腹自殺を図ったところから
物語が始まる。
間宮自刃の理由は、主君の常軌を逸した暴虐を、わが身を
もって抗議し諌めることにあったのだが…。

悔しいからストーリーを全部書いてやろうと思ったが
やめた。みんなの楽しみを減じてしまうことになる。
でも、最後どうなっかというと…、
ウソ、ウソ、言いませんからご安心して映画観て下さいよ。



先日、ちょいと用事があってとある観光施設に行った時のこと。
駐車場の身障者用スペースの脇で一服していたら、そこへ
一台の車が入ってきた。
何気に見てると、車から降りてきたのは、どこから見ても
健常者の中年夫婦。
ニラミつけてもどこ吹く風のような顔をしてるんで、
「そこ身障者用スペースですよ」って声かけたら、
今気付いたようなわざとらしい素振りをしながら、
「すぐきますから」とかなんとか言って、小走りに去って
行ってしまった。
高速のSA・PAなどでもよく見かける光景だが、
わずか数10メートルだけなのに、なんたるあさましき者たち!
会津藩の教えにもあるように、
「ならぬものはならぬ」!

File No.172
『人斬り以蔵』司馬遼太郎(新潮文庫 667円)
オススメ度★★★☆☆

大河ドラマ「龍馬伝」がなかなか好調のようだ。
オレは、前にも書いたような理由でほとんど観ていない。
が、先週・先々週と続けて2回観てしまった。
うむ〜、面白いじゃん。
まあ、寺田屋で龍馬が捕縛されそうになるのは、中後半の
ヤマだしなあ。
「龍馬って最後はよう、…」
「シッー!だまって!」
「……」
1週間にこの45分だけ家人が別人になる。

で、岡田以蔵。
この男も「龍馬伝」に出てきたハズだが、その頃は茶の間に
入らせてもらえなかったので、どういう描かれ方をしたのかわからない。
これで、この本を読んでみようと思ったワケ。
いやあ〜、もうすでに幕末の頃にこんな剣客がいたなんて、スゴイ
というか狂気というか。
以蔵は、武市半平太によって足軽からとり立てられるわけだが、
その心と行動が次第に乖離していく様がみごとに描かれていて
面白い。
「剣は、人を殺すものだ。が、徳川期に入って、哲学になった。
以蔵は戦国草創の剣客のように、ひたすら殺人法としての
剣技を自習した。いずれが正道で、いずれが邪道なのか」
というところが、この作品の真髄でもある。

そのほかこの本には、村田蔵六(のちの大村益次郎)を描いた
『鬼謀の人』や、古田織部正に仕えた鎌田刑部左衛門を描いた
『割って、城を』など、司馬遼太郎の短編8作品を収めている。
短編とは言え、いずれもその切り口はシャープで、興趣が
尽きない。
なかでも『おお、大砲』は、徳川300年間後生大事にしてきた
ものの価値というか、真価が滑稽なほど陳腐化してしまったことの
象徴的な話であり、一抹の哀しみを伴うおかしみを醸している。





五木寛之が、何かの本で、たまには自分の靴をジックリ
磨いてみるのも休日のオツな過ごし方、みたいなことを
書いてたのを思い出した。
今日は今にも雨が降りそうな曇天で輪行もちょいとムリ
だし、そんじゃあって靴磨きをはじめた。
ふだんあまり眼をやったり、手に取ったりすることのない
靴を、愛おしく磨いていると、何だか不思議に心が落ち着いて
くる。
一足に30分かけて、三足で1時間半。
至福とまではいかないが、心が少し豊かになるような時間の
流れに恍惚としていたら、
「その調子で風呂掃除もしてよお」と家人のかさにかかった
ような要求が。
もちろん、いつものごとく無視して自室に引きこもり。
でも、案外風呂掃除も面白いんじゃあないかなあって考えが
カスめたりして…。
ちょっとヘンだなオレ。

File No.171
『ねぼけ人生』水木しげる(ちくま文庫 580円)
オススメ度★★☆☆☆

NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」がなかなか評判がいいようだ。
オレもたまに観るが、ふむ、悪くない。
主人公当人が書いた原作本みたいなものを少し前に読んだが、
まあ、とりたててスバラシイという内容でもなかったような
気がする。
オレの両親もそうだが、あのぐらいの年代は、多かれ少なかれ、
程度の差はあれど、似たような経験をしてきているのでは
ないだろうか。
同時代性の共感みたいなものが、ヒットの要因のひとつかも
知れない。

で、この本は、今から約20年前に水木しげるが自身の半生を
綴ったものということで、かるく読み始めてみた。
オレは、ゲゲゲの女房が語る半生記より、こっちの方が
面白かった。
眼に見えないものへの畏怖心が芽生えた少年時代や、片腕を
失った軍隊での戦争体験、戦後混乱期の極貧時代などが、
ジメジメとではなく、かと言って軽すぎもしない淡々と
した筆致で綴られている。
ちょっと意外だったのは、ゲゲゲの女房のことは殆ど触れられて
いないということ。
結婚した時のこと、子どもが生まれた時のこと、極貧を凌いで
いた時のこと、ようやくマンガ家として一家を成した頃のこと、
いずれも女房の姿がこの本では見えない。
昔の男なんだなあ、きっと。
家族のことを公に話題にするようなことはせず、あくまでも
自分自身(の仕事)と社会との関わりという基軸でものを
考え、行動するという意識なのかも知れない。
そのことの良し悪しは別として、旧き良き日本男子の一典型
であり、好感が持てる半生記でもある。

蛇足ながら、南伸坊によるカバー装画もほのぼのとして、
なかなかいい。



国民の多くが野球に熱狂していた時代があった。
(今はサッカーも熱いようなので、野球ばっかではない)
プロ野球に限って言えば、熱狂時代の幕開けは、あの
長嶋茂雄がプロ野球入りした年からではないだろうか。
それは、奇しくもオレの生まれた年。
そして、それから10数年、オレが高校時代に長嶋茂雄は
現役を引退した。
忘れもしない引退試合。
家では笑いや涙など微塵も見せなかった父の目が真っ赤だった
ことを今でも憶えている。
オレも屋根にのぼって泣いた。
ウルトラマンが死んだ日も屋根の上で泣いた。
なぜ屋根の上か自分でもよくわからないが、泣いているところを
人に見られたくなかったのかも…。

File No.170
『野球へのラブレター』長嶋 茂雄(文春新書 800円)
オススメ度★★☆☆☆

そんなオレだから、長嶋茂雄の、こんなシャレたタイトルの、
しかも、オビに長嶋が一番輝いていた現役の頃の精悍な顔の
写真があれば、間髪いれずに即ご購入と相成った。
本の中身は、長嶋が病に倒れてから二年ほど後にはじめた
「月刊ジャイアンツ」連載の野球エッセイを、改めてまとめたもの。
前にもちょっとふれた、いわゆる「グリコ本」だが、件の
月刊誌は殆ど読んだことがないので、まあ許容範囲。
ちなみにオレは正々堂々ジャイアンツファンだが、ことさらに
ジャイアンツだけをヨイショするような雑誌・本・新聞等は
あまり好かん。
確かにジャイアンツは好きだし、とくにON(王・長嶋)は
大好きだったが、そのライバルだったタイガースの村山・江夏、
ホエールズ(現・ベイスターズ)の平松など、各球団の
エースたちも、心からカッコイイと思っていたから…。

本論に戻って…。
この本、「野球というスポーツは人生そのものだ」を信条とする
長嶋の来し方・その姿勢を物語る好エッセイだ。
ああ、長嶋はこんなことを考えていたのか、と思わせる部分も
多くあった。
そのひとつが、投手のインコースのボールに対する「恐れ」が
あまりなかったワケ。それは、長嶋が打席に立ったとき、常に
二つの球筋をイメージしていたこと。
ひとつは、自分のヒッティングゾーンに来る球、もうひとつは、
頭めがけて来る球筋、だったそうだ。
あと、監督をやっていた時、若い連中とやっていく気苦労を
少しボヤいているところなんざあ、逆にフツーっぽくて新鮮な
感じさえした。
そして何よりも面白かったのは、巻末に収録されている、
日本プロ野球コミッショナー加藤良三との対談だ。
この加藤コミッショナーは、驚くほど熱狂的な長嶋ファンで、
長嶋のことなら本人よりよく知っているほど。
ONアベックホームランの最初が天覧試合で、最後が引退試合
の時だなんて、オレは初めて知った。

こんなに褒めちぎって、なんで★ふたつ?
それは、長嶋自身が書いてないから。
少し障害が残ってしまったので仕方のないことだが、聞き書き
にしても、何だか長嶋の「におい」のようなものが、いまいち
オレには伝わってこなかった。
長嶋はこんな言葉を使わんだろう、こんな話し方はせんだろう
と、なんとなく感じるのである。
一言で言うと、編集しすぎ。
どうせこれだけ編集するなら、脈絡のない話の内容・筋も
ちゃんと構成し直せば良かったのに。
ちょっと「題名負け」のような感じもするなあ。
好きな題材だからこそ、ついつい辛口になってしまうんだなあ。



さっそくクレームがついた。
昨日アップしたパンの話で、アレやコレやと書いてしまったことに、
「男子たるもの、衣・食・住を語らず、じゃあなかったの?」
ってメールがグサリ。
確かにそういう意味のことを何回か言ってるし、そうありたい
と願ってはいる。
しかし、悲しいかなオレも俗人、どうしても食欲・物欲が
つきまとう。
そして、衣・食・住の話題はみんなに共通してるんで、楽しく
盛り上がりやすいんだなあ、これが。
衣・食・住を語らないとすると何が残る?
旅か…?
とは言っても、世界中を旅しているわけでもないし、実際パワー
いるんだよな、ひとり旅するって。

File No.169
『旅へ 新・放浪記』野田 知佑(ポプラ文庫 600円)
オススメ度★★★☆☆

著者の野田知佑って、日本におけるツーリングカヌーイストの草分け
的な人。「あやしい探検隊」の椎名誠とも交友があり、ツーリスト
でありナチュラリストとしての行動も似ている。
この本は、大学を卒業した著者が、自分を見つめ、将来に向けて
何か確かなものを掴もうと、必死にもがき苦しみながら、日本や
世界を放浪する青春記でもある。
旅は北海道から京都へ、そしてヨーロッパへと広がる。
その殆どが、バックパッカーとして、ヒッチハイクや野宿なども
いとわない貧乏旅行。
貧乏旅行だけに、人との出会いも多く、かかわりも濃く、すべてに
多情多感で、自由であるがゆえに自己の意志や意識が問われる旅
でもある。
切ないまでに自己を見つめ煩悶するその姿は、軽重の差はあれど、
誰もが一時期の自分と重ね合わせてしまうかもしれない。
だから著者は、「青春とは、人生で一番やせこけている時期の
ことである」と言うのであろう。
そして著者は、旅のあとに一時期勤め人になるが、
「自己憐憫と自己嫌悪の日々の後で、勤め人の生活が楽だったのは、
大きな決定、判断は他人がするので、自分の無能、無為を責める
ことが少なくなったからだ」と言い、再び自由の海へ。
これを「うらやましい」と思う人は、少々思慮不足だと思う。
なぜなら、自分の生き方や結果にすべて自分自身が責任を負う
というのは、相当の覚悟がいるし、第一、溢れんばかりのパワー
がないと無理である。

オレも10代後半から20代の頃は、あてどない一人旅が好きで
よく出かけた。それは、野田のような大放浪ではなく、プチ放浪
に過ぎなかったが…。
その頃に見たもの、感じたこと、出会った人々、交わした会話は
今でもよく憶えている。
そういう時期も過ぎてだいぶ経ったある日、何を血迷ったか、
「男は一人旅をせなアカン」と思い、リュックかついで夜行列車
に乗って、3、4日見知らぬ街や野山を歩いてきた。
その次の年も行った。
が、だんだん億劫になってきた。
まず、自分自身の日程を調整することが億劫。
「何がなんでも行く!」という強い意志力がないとなかなか
旅立てない。
次に、時間をかけるということが億劫になった。
徒歩やバス、鈍行列車など、時間がかかるものに身を委ねられない、
言ってみれば「せせこましく」なった。
そして何よりも、家人や周囲への説明が億劫というか、面倒くさい。
「どこ行くの?」
「誰と行くの?」
「どこ泊まんの?」
「何が楽しくて一人で行くの?」…
(ウルサイ!オマエにはわからん)と心の中で毒づきながら、
じっと沈黙で耐えることが、少々嫌になってきた。
一人旅はパワーあればこそ、のゆえんでもある。
よおっし、今年こそ!
と公言してしまうこと自体がパワーの減退をあらわしている。
「本当に行く奴は何も言わないで行く」と著者も書いている。
その通りだなあって、寂しく思う…。
ある知人が、某市の某ベーカリーがウマいと言う。
別の知人も、同じようなことをオレに言った。
そんじゃあ、ってんで、重い腰をあげて行ってみた。
そこは、店内でもパンが食べれるようになっていたので、
さっそく買ったパンをガブリ。
「フ〜ン、普通じゃん」
パンキチの家人も「フツーだね」と素気ないリアクション。
(カタい給食パンで育ったオレたちの味覚も相当あやしい
もんだけど…)
大量に購入したパンを少々恨めし気に見ながら、そそくさと
店を出てしまった。
だいいち、オレにはパン食の習慣がない。
(どーすんだよ、このフツーのパン!)
そう言えば以前、「パン屋の数と質は都市文化のひとつの
バロメーター」というようなことを読んだか、聞いたこと
がある。
ん〜、ナルホド、言えてるかも…。

File No.168
『乙女の密告』赤染 晶子(文芸春秋2010年9月特別号 800円)
オススメ度★☆☆☆☆

恒例になった芥川賞受賞作品の読後感。
はっきり言って、オレ的にはいまいちの作品が近年多いので、
今度こそはと、少し期待していた。
が、その期待はまたもや裏切られた。

物語の舞台は、京都の外国語大学。
主人公は、そこで学ぶ女子学生(たち)。
題材は、誰でも知っているアンネ・フランクの『アンネの日記』。
ちなみに、オランダ語の原題は『ヘト アハテルハイス』という
らしい。意味は「うしろの家」。
そのドイツ語版の暗誦スピーチコンテストに臨む「乙女」たちの
奮闘ぶりを少々コミカルさも交えながら描く過程で、
誰がアンネ・フランクを密告したのかというナゾに話を
収れんさせていく。

明らかに著者自身の学生時代の経験や体験をベースにしたと思われる
日常描写には最後まで馴染めなかったし、そのナゾの答えも、
「ヘッ?」ってなカンジ。
「受賞のことば」に書いてる「私はこれからも血を吐いて、文学に
精進していきたいと思います」という著者の弁も、マジなのか、
ユーモアなのか、よくわからない。

今回の場合、あえて面白かった点と言えば、本文ではなく、9人の
選者の選評の方だ。
おどろくべきと言うか、賞に選ばれたのだから当然と言うべきか、
半数以上の選者がこの作品を評価している。
一方、宮本輝は、「…小説というものはこのように読むことも
できるのかと、感じ入らせて…」と少々皮肉っている。
石原慎太郎に至っては、「…こんな作品を読んで一体誰が、己の
人生に反映して、いかなる感動を覚えるものだろうか…」
と、かなり手厳しい。
(石原評はいつもそういう傾向なのだが)
オレはそこまでは酷評しないが、本は、読む人や読み方によって
その評価は大きく分かれる、ということの格好の例のひとつではないか、
と思う。
(だから、他の人の、とくに「面白い」「いい」と感じた人の
意見・感想を聞いてみたい。皮肉じゃなくて)

そう言えば、少し前に読んだ沢木耕太郎の『無名』の中で、
「私は、自分より若年の作家・作品に対する興味関心が殆どない
という点で、読書家の父と相似している」という意味のことが
書いてあった。
オレも、この歳になって、あんまり無理せんでいいかもなあ。
膚身感覚でわからないものを、ちょっと本読んでわかったような
気になるということは、相当無理だし、無駄だし、無意味な
ことのような気がする。
先入観に支配されず、自分が曲がりなりにも培ってきた価値観や
人生観、尺度みたいなものを信じるしかない、と思う。



先日、久しぶりにサウナに行った。
うだるような暑い日に、さらに炎熱のサウナに入るのは、
何だかサディスティックな感じで、すごくいい。
滝のように流れる汗も、身体の老廃物や不純物を搾り出して
いると思えば、生き返る感じすらする。
そして、待ちに待った水風呂!
その温度差は40度ぐらいだろうか。
暑さ極まった身体をザブ〜ンと水風呂へ………、
というワケには行かなくなったのよ、このごろ。
数年前に、心臓がキューンとなってからは怖くて、
身体の下から十分にかけ水をしてから、ソロリソロリと水風呂へ。
さらに、サウナ→水風呂のサイクルを、20代の頃なら
3回転ぐらい平気だったのが、今では1回でグッタリ。
サウナひとつで自信喪失したり、前回は思わぬ体力に少し
自信を持ったりと、中年心理はたえずナーバスに揺れ動く…。

File No.167
『大江戸捕物帳の世界』伊能 秀明(アスキー新書 743円)
オススメ度★★☆☆☆

おそらく亡父の影響だろう、子どもの時から、捕物帳や裁き物などの
時代劇が好きだ。
捕物帳なら「鬼平犯科帳」と「銭形平次」、裁き物なら「大岡越前」と
「遠山の金さん」が白眉だろう。
勧善懲悪ワンパターンの芝居がなぜ面白い?とよく友人・知人に
不思議がられるが、好きなものは好きだから仕方がない。
とくに、「大岡越前」のテーマ曲は、これから江戸時代にタイム
スリップするための、なくてはならないプロローグだった。

だから、この本も躊躇することなく手にとり、即購入した。
内容は、様々な史料から、江戸捕物帳の虚実を検証するもので、
たいへん興味深く、面白いが、どっぷりと江戸時代に浸からせて
くれるものとの勝手な期待は少々外れた。

でも、「ええっ、事実はそういうことだったのかあ」と気付かされる
ことが随所にあり、興味が尽きなかった。
例えば、極悪人が首をはねられる時の音が、洗濯物のシワを振りさばく
時の「パンッ」という音にそっくりだという話。
さすが、刑事博物館の学芸員だった著者ならでは。
また、お奉行様が裁きの場(白洲)に登場するシーン。
時代劇では、「遠山左衛門尉様のおな〜り〜」と太鼓とともに登場
するが、実際は「シー」と静かにさせて、荘厳に登場したという。
さらに、火付盗族改の長谷川平蔵は、異例の出世、異例の在任期間で
名捕物・名裁きをしたが、晩年は老中に疎まれて不遇をかこったとか。
死罪は老中の決裁事項だったとか。
町奉行は南北の月番制だったが、激務で、在職中に命を落とすものも
少なくなかったとか…、エトセトラ…。
終始興味が尽きない内容ではあるが、オレはやっぱ虚構でも時代劇の
方がいいなあ。
だって、理屈抜きに無条件で面白いんだもん。
オレって、根っからの俗人なんで…。
先週、松島・石巻に遠征した。
ちょうど「松島基地祭」の日。
基地と海の間を走る自転車道の真上を
ブルーインパルスや戦闘機F15などが飛び交い、
大迫力。
炎天下で見入ってしまったせいか、走った距離は
さほどでないのにフラフラしてきた。
水分も十分にとってるハズなのに猛烈にダルいし、
ふくらはぎが今にもつりそう。
家に帰ってからも本調子じゃない。
そして翌日は朝早くから湯沢に車で。
こりゃダウンかと思いきや、数日で持ち直してきた。
オレもまだまだ…(過信禁物!)

File No.166
『無名』沢木 耕太郎(幻冬舎文庫 533円)
オススメ度★★★★☆

沢木耕太郎と言えば、70年代から現代までを代表する
ノンフィクションライターの一人である。
オレも、『敗れざる者たち』を読んで感銘を受けた
おぼえがある。
『無名』は、沢木と父親の関係を確かめ直しているような
趣の本である。
沢木の父・二郎が病に倒れ、看病する過程で、幼少期からの
思い出を手繰り寄せながら、父は何を考え、どのように生き、
子どもたちとどんな関係性を醸して来たかを改めて見つめ直す。
二郎は、事業経営者の次男として、経済的にも不自由のない
境遇に生まれながら、戦争を機に家が没落し、町工場の
工員として、おごらず、高ぶらず、目立たず、ひっそりと、
質素に暮らしてきた。
一合の酒と一冊の本があれば、それが最高の贅沢というほど、
ストイックな暮らし。
「父には自分が何者であるかを人に示したいというところが
まったくなかった。何者でもない自分を静かに受け入れ、
その状態に満足していた」
『無名』たるゆえんでもある。
子どもたちを一切束縛せず、叱ることもなかった。
著者は「父の私に対するこの徹底した不干渉には凄みすら
感じられる」と書いている。
父に叱られない日はない、というほどスパルタ式に育て
られたオレには、とてもそういう状態が想像つかない。

父・二郎の想いは、五七五の短い俳句の中にちりばめられていた。
余命いくばくもない父へのレクイエムのように、息子・沢木は
この俳句を集め、編みはじめる。
俳句に込めた想いをなぞり考えていく。
それが「お涙頂戴」式のセンチじゃなく、つとめて淡々とした
筆致に終始しているところが実にいい。
父を喪おうとしている哀しみが、かえって深く、増してくるようだ。
「悲劇を涙で語らず、喜劇を笑いで語らず」といった風が、オレの
趣向・性向にもすごく合っている。

喜怒哀楽を素直に爆発させるような風潮が蔓延している現代。
それは悪いことではないだろう。
しかし、涙なんてそもそも人前で流すものではない、と
オレは思う。
泣きたかったら、一人布団でもかぶってオイオイ、シクシク泣く…、
そんな男でありたい…と思う(あくまで勝手な願望)。

またまた脱線してしまったが、華やかさも、奇抜さもないこの本
になぜか四つ★を付けてしまった。
それは、父親を亡くして早や四半世紀が経とうとしている自分自身の
意識と重なり合う部分があるからかもしれない。
オレばかりでなく、父と息子との間には、いろいろな「川」が
あるんだろう。
夜に炭水化物を摂るのを(極力)止めるようにしてから
2カ月ぐらい経つが、まだ体重に劇的な変化はない。
なぜなんだろうって考えると、それもそのハズ、
もともと夜にしっかりゴハンなんてあまりなかったこと。
でも、もっと減量して、節煙→禁煙しないと、今以上の
スピードと登坂は望めない。
わかっちゃあいるんだけどなあ。
それを意志の弱さと言う人もいるけど、何でも自分の
思ったとおりやれる人なんているんかい。
と居直るオレも少々情けないけど、まあ、この歳に
なれば心身の「安全装置」だと思うしかないワケで…。

File No.165
『想い雲 みをつくし料理帖』高田 郁(時代小説文庫 571円)
オススメ度★★★☆☆

三夜連続同シリーズのアップは、ぶっくぶく始まって以来
初めてのことかも。
そんなたいしたことないじゃん、と思っても、気になってしまうん
だなあ、これが。
この著者も、思わせぶりというか、少しずつタネあかしをするんで、
ついつい先へ先へと読んでしまう。
まるで数年前に流行った連続ドラマ(映画?)「24」のようだ。
あん時は、レンタル屋さんで2本借りて、食を忘れて観て、その日の
うちに閉店前に返却して、さらに2本借り、寝を忘れて観て、
次の日(日曜日)開店と同時に返却・4本借り・8時間連続鑑賞。
店員さんも家人もあきれるほどの偏執狂ぶり。
そういえば、小学校低学年のころ、初めて東京というところに行って、
初めてデパートというところに連れて行かれて、そこでオレの目に
飛び込んできたのは、電車模型。精巧な造りの山手線や新幹線が
線路を走っているそのショーケースに釘付けになってしまった。
何度引き剥がされても振り払い、ガラスにベチャっと顔を付けた
まま(だったような気がする)。
あとは、買ってくれるまでは絶対ここを動かない、という幼くて
健気で?純粋で?悲壮な決意あるのみとばかりに。
半日近く動かなかったらしいが、ついには買ってもらえんかった。
きっと、代替のミニカー数台でだまされたんだろう。
まあ、熱するのも早ければ、冷めるのも早い。
その後は、そんなに欲しくてたまらないというような思いに苛まれた
記憶はない。
で、でも、この歳になっても、たまに電車模型をちょいと見かけると
自然に胸が高鳴るというか、ちょいとドキドキするような気持ちに
なってしまうのはナゼなんだろう。
「三つ子の魂百まで」(≒ガキみたいな中年オヤジ)ということなのか?

ハァ〜、話は大脱線どころか、レールを飛んで銀河鉄道999ばり。
まあ、せっかく書いたんだし、消すのも面倒くさいので、このまま
にしてしまおう。
面倒くさいといえば、オレは稀代の面倒くさがり屋で…。
もうやめとこっ!

やっと本題。
このシリーズ第3作目では、また新たな展開があった。
そのひとつは、澪が幼馴染の野江と、意外な、実に意外な形で
再会するのだ。もちろんまともな再会ではなく、ほんのすれ違い
ざまのような…。
もうひとつは、澪が密かに恋焦がれる小松原の正体が垣間見えたこと。
それに、「つる家」の危機や、下足番「ふき」の弟健坊の失踪事件など
が絡み合いながら、人情話が繰り広げられていく。
だが、佐兵衛の消息はまだ杳としてわからないまま…。
このシリーズも、この辺で「ごっつおさま」かなあって思ってたけど、
何だかまだ気になるなあ。
と言いつつ、第4弾も読むんだろうな、きっと。

よくよく考えて見ると、この物語は一見するとエンターテインメント
のようだが、実は、ブンガクの要諦をきっちり背骨のように透徹させて
いることに気がつかされる。
それは、「何のために生きるのか」「いかに(幸せに)生きるのか」
という命題である。
一連の作品を通して読むと、命題に対する著者の創作姿勢がよくわかる。
山本周五郎や池波正太郎、山本一力のような「いぶし銀」のような
魅力はまだ十分に醸されてはいないものの、物語に込める思いが
ちゃんと伝わってくる、というのは、やっぱ才能なのではないかと
オレは思う。

今日はちょいと用事で山形へ。
その行き帰り、いつもより注意して路面の状況や
傾斜などをさりげなくチェック。
(人の話に時々生返事しながら…)
そして、オレなりの結論。
米沢・山形間の自転車往復はまだムリ。
だって、最初の難関「とりあげ坂」がキツすぎる。
そして、第2の難関「上山」もキツそう。
何とか乗り切ったとしても、たぶんその日のうちに
帰ってなんてこれないよお。
ダメ、ダメ、ダメ。
自転車はやっぱ楽しく乗らなきゃ。
チャレンジは来年にするよ、Kさん。
でも、来年になるとまた一つ老化するんだよなあ〜。
もう少し涼しくなってから考えよっと。

File No.164
『花散らしの雨 みをつくし料理帖』高田 郁(時代小説文庫 571円)
オススメ度★★★☆☆

前回は、なんのかんのと最後にイチャモンつけてしまったような
格好になったが、どうにも気になって、第2弾も続けて読んでみた。
そしたら…、
第2弾の方が前作より面白いかも。
というのは、前作で解き明かされなかったことが、少しわかって
きたり、思わぬ危機があったりと、バラエティに富んだストーリー
が展開されているからだ。
まずそのひとつは、江戸の名店「登龍楼」が、なぜ澪が苦心して
創り上げた料理をほぼ同時に出しているのか?
偶然なのか、スパイなのか…。
そして澪がとった行動は…、といったところが前半のヤマ。
二つ目は、澪の幼馴染である野江の消息。
易者に「旭日昇天」と占われた野江は意外なところで…。
ちなみに、澪は「雲外蒼天」と占われている。
多くの艱難辛苦(=雲)はあるが、それを突き抜けたら、そこには
青々とした空が広がっているというもの。
澪と野江が交わした「涙は来ん、来ん」のシーンもホロリとさせられる。
そして、第3が、長屋の隣人おりょうとその息子太一を襲った危機。
読んでいるオレも、わかっていながら、もうダメなのかなあって
思わせられたりして。
そして、そして…、行方知らずとなっている佐兵衛の消息に
つながる糸口がチラリ。
こりゃ、早く第3弾も読まなきゃ。


やっぱ、一日一日の地道な積み重ねが大事、と
つくづく感じさせられた。
炎暑・雨天・仕事・ヤボ用などにかこつけて、
しばらく自転車を控えていた、というかサボッてた。
意を決して、今早朝、およそ3週間ぶりの本格的輪行へ。
最初はなんだかペダルが軽く感じられて快調…!?
でも、10kmを過ぎたあたりから、スピードが上がらない。
必死こいて15kmの中間地点へ。
自転車を降りたら、滝のような汗が止まらない。
まるで、お盆中のアルコールが全部出てしまうような汗・汗・汗…。
こりゃたまらん、と早々に帰宅して、温い風呂に浸かったら、
猛烈なダルさと眠気で…mmmm。
ふ〜む、人間は日頃の鍛錬が大事なんだにゃ、むにゃ、むにゃ…。

File No.163
『八朔の雪 みをつくし料理帖』高田 郁(時代小説文庫 552円)
オススメ度★★★☆☆

少し前に、「最高に面白い本大賞」の『永遠の0』を読んだら、
本当に最高に面白かったので、この賞の「文庫・時代部門」第1位
の同書を探して購入した。
そしたら、他の2つの賞とあわせてトリプル受賞の本だった。
これは面白そう、と意気込んで読み始めたが、この本は、
最初からガツンとくるようなストーリーではなく、ジワジワとくる
タイプのようだ。

内容を一言で言うと、いわゆる「江戸人情話」。
上方の水害で両親を失った主人公の「澪」(みお)は、元奉公先の
ご寮(女将)さんと江戸に出て、失踪した若旦那を探す。
江戸人情の中で展開する「つる家」での料理修行と、少しずつ
解き明かされる真実…。
そして、各章も、「ぴりから鰹田麩」「ひんやり心太」「とろとろ
茶碗蒸し」「ほっこり酒粕汁」と、その時々に澪が取り組んだ料理を
章題にしている。
(筆者注:ちなみに、「心太」と書いて「ところてん」と読む、そうだ)
各章とも「泣かせどころ」があり、浅田次郎ばりのストーリーテラー
の手腕を感じさせる。
さすがトリプル受賞作品だ。
とくに、女性読者の圧倒的支持があったものと思われる作風だ。

が、超シブ好みのオレとしては、食べ物の描写では池波正太郎が
ピカ一だという勝手な先入観があって…。
創る描写は舌を巻くほどだが、食べた時のリアクションがいつも
同じで…。
とかなんとか、あれやこれやと言ってるわりには、シリーズ第2弾
第3弾もちゃっかり買ってたりして。
ちょっと展開が気になるので、早々に読んで、近くアップする予定。
乞うご期待!
(別に乞われてないかもしらんが…)
今日、8月15日は65回目の終戦の日。
ひさしぶりに高校野球を観ていたら、正午の黙祷
が始まった。この時の出場チームは沖縄の興南高校。
春の覇者にして、今夏も最有力校のひとつ。
国内で悲劇的な戦地となった沖縄。
今の球児たちには、そんな陰は微塵もなく、明るく
溌剌としたプレーを見せてくれているが、悲劇の弔いと
平和な未来への象徴として、ぜひガンバッて春夏連覇して
もらいたいと、個人的に思っている。
高校野球にそんな重い想いをかけるなんて、古いのかなあオレ…。

File No.162
『「特攻」と遺族の戦後』宮本雅史(角川文庫 705円)
オススメ度★★★☆☆

日本人として、このお盆の時ぐらいは、自分の先祖と太平洋戦争を
考えてみるべきではないかと思い、この本を手にとってみた。
少し前に読んで、最高の5つ★を付けた『永遠の0』は物語だが、
これは、多くの証言や書簡を集めた、いわゆるドキュメンタリーだ。
意味付けや解釈に走っていない。
特攻で散華した本人と遺された者たちの感情の動きや深い想いを
丁寧に追っている好著である。
第1章は、昭和20年4月に散華した陸軍特攻隊員伍井芳夫大尉と
その妻子の話。
年端もいかぬ一男二女の子どもと妻を残して死出に旅立つ伍井大尉の
気持ちが切々と伝わる手紙の数々は、涙なくして読めない。
その辞世の歌
「身はたとえ波の末路に果つるとも とわに栄ゆる国を守らむ」
は、心にゴーンときてしまった。
現代に生きるオレたちは、こうした英霊たちの魂の想いをしっかりと
受け止めて生きているんだろうか、と思ってしまう。
第3章は、最愛の婚約者を残して逝ってしまった林義則少尉。
その婚約者小栗楓は、林が死んでからもずっとその影を慕うように
戦後60余年を生きてきた。
そして、80歳をゆうに過ぎてのインタビューにも、
「…私にはあの人の面影があったからこそ幸せだったのです」
と語る。
もう感無量…。

著者は、後半で知覧特攻平和会館を訪れた時のことを書いていて、
英霊たちひとりひとりから、
「今の日本は大丈夫ですか?」と問いただされるような気がしたと
言う。
オレも10数年前に初めて知覧を訪れた時に、同じような感覚を
持ったことを思い出した。
特攻に限らず、戦没者300万余の想いは、重い、確かに重過ぎる。
だけど、太平洋戦争の悲劇を風化させないためにも、一人ひとりが
重さの一端でも実感しなければならない…と思う。
南洋で散華した伯父の名前の一字をもらったオレとしては、とくに…。

最後に。
戦後、GHQによる靖国神社焼却案が持ち上がった時に、諮問を受けた
ヴァチカン代理公使のブルーノ・ビッター神父はこう答えたそうだ。
「…いかなる国家も、その国家のために死んだ人びとに対して、
敬意を払う権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か敗戦国かを
問わず、平等の真理でなければならない…」

もはや、イデオロギーや主義・主張の問題ではない。
戦没者に素直に頭を垂れたいと思うばかりである。



ものぐさなオレらしくもなく、このところ3日連続のアップ。
スバラシイ!
そのわけは…?
ひとつは、あまりにもの暑さで飲むのを少々控えていること。
ただでさえ多汗な体質なのに、必要以上にアルコールが入ったら、
もう後は塗炭の苦しみ。
涼しいところで冷たいものを飲んでいる時は、そりゃ快適至極。
でも、その後よ、問題は。
クーラーをギンギンにして寝るんだけど、いつの間にか止まってて、
汗みどろになって目を覚まし、家人と夜中の口ゲンカ。
こちとら、できれば冷蔵庫の中にでも入りたい気分なのにもうっ!
犬も食わない話はこれくらいにして、3日連続アップのもうひとつ
の理由は、ここ数日、複数冊を並行して読んでいたこと。
「本は同時に10冊読め」なんて本があったけど、オレはせいぜい
4、5冊がいいところ。
それ以上だと、わけわかんなくなるとともに、相対的に面白くない
本をほっぽってしまう。

File No.161
『日本人へ 国家と歴史篇』塩野七生(文春新書 850円)
オススメ度★★☆☆☆

塩野七生の新書本というので、姉妹本の「リーダー篇」とともに
中身もみないでスグ買った。
読んでいるうちに、なんだか「既読感」のようなものを感じた。
そうだ、これは、月刊「文芸春秋」の巻頭エッセイをまとめて
新書本にしただけなのだ。
ちょっとガッカリ。
でも、こういうのってよくあるよなあ。
月刊誌や週刊誌に連載していたものを編集し直して本にしてまた
売るというやり方。
こういうのをオレは「グリコ本」と呼んでいる。
そのココロは、言わずと知れた「2度おいしい」。
初めは月刊誌に掲載し、その後、値のはる単行本で売りまくり、
話題が少々冷えた後は、値ごろ感のある文庫本で売るという
2回どころか「3回おいしい」という方法はよくやる手。
それでも本は売れなくなってきてて、市場規模も2兆円ぐらい
になってしまっているのだから、活字離れによる出版業界の
不況は少々深刻だ。
本題からそれてしまった。
「グリコ本」ながら、中身はさすが大作『ローマ人の物語』の
著者だけあって硬骨にして示唆深いものがあり、どちらかと
言うとオレ好みの内容・筆致である。
「怒り」を抑えに抑えている身としては、こうした歯に衣着せぬ
筆致はスゴク気持ちいい。
2つ3つ引用してみる。
「亡国の悲劇とは、人材が欠乏するから起こるのではなく、
人材はいてもそれを使いこなすメカニズムが機能しなくなるから
起こるのだ」
その通り(だと思う)。国でもいろんな組織でも同じこと。
「バカにつける薬はないと言うけれど、利口だと思い込んで
いる人につける薬もない」
ひえ〜、そこまで言うかあ。でもナルホド。
「もしも外国人の誰かがこの日本の歴史を書くとしたら、
個々の分野では才能ある人に恵まれながらそれらを全体として
活かすことを知らなかった民族、と書くのではないだろうか」
そうかなあ?でも、あのローマの壮大な歴史物語を書いた著者が
外から客観的にみてそういうのだから、ディテールは別として
おおむね真理をついているのかも知れない。

ところで、塩野七生が半生を賭けて創作した大作『ローマ人の
物語』は、かねてから読んでみたいと思っている長編のひとつ
である。が、全15巻とその量は膨大だ。
まあ、勤め人を引退してからかなあ、読むのは。


今回もサマージャンボ宝くじを購入した。
1回平均で30枚買ったとすると、今まで通算何千枚買った
のだろうか?
それなのに、当選金額の最高はたったの1000円。
万を超す当選がないどころか、高額当選番号には、
組番号すらカスリもしない。
それでも買い続けるこの愚直さというか、アサましさというか、
われながらあきれてしまっている。
いつまで経っても欲望は断ち切れない。

File No.160
『寡黙なる巨人』多田富雄(集英社文庫 571円)
オススメ度★★★☆☆

国際的な免疫学者として活躍していた著者・多田富雄氏は、
ある日突然脳梗塞に見舞われ、右半身麻痺・嚥下障害・言語障害
という重度の後遺症を負ってしまう。
倒れる前までは、健康診断などでも異常はなかったと言うから、
まさに突然の不幸である。
前半部は、倒れてから、異郷の地での病床生活、そして帰京して
からのリハビリ生活が、時に激しく、時に微妙に揺れる心の動きと
ともに、克明に描かれている。
突然に降りかかった不幸を、何とか受け止めて、前向きに生きよう
とするプロセスは、圧倒的なリアリティをもって読む者の心に
迫ってくる。
「受苦ということは魂を成長させるが、気を許すと人格まで破壊
される。私はそれを本能的に免れるためにがんばっているのである」
という言葉にも説得力がある。
また、闘病生活の中で、自身が医学者でありながら気付き得なかった
日本の医療体制の不備をも指摘している。
「大体このごろの医者は、患者の顔を見ようともしない。パソコン
のデータを覗き込んでこちらを振り向かない。…愁訴を持っている
患者は目の前にいるのだ」という指摘に同感する人も多いだろう。
オレもそういうことが1度だけあった。
でも、その逆もある。
オレの愁訴をよく聴いた上で、素人にもわかりやすく病理や治療法、
薬の効用・副作用、さらには想定されるリスクや予後のことまでを
説明してくれるお医者さんもいる。

それと、この本の中に、庄内の実業家・新田嘉一氏との交流も書かれて
いる。いわゆる「新田嘉一コレクション」と呼ばれる絵画芸術を
通じての交流だ。
多田氏は新田氏との対面第一印象を次のように書いている。
「新田さんは、うわさにたがわず無口で頑固そうな、含羞に満ちた
庄内の男だった。しかし、一目でものを見通すような眼光の気迫は、
並ではなかった。強い破壊力を秘めた、不発弾を見てしまったような
気がした」と。

この本を読みすすめていくと、題名の意味も明らかになってくる。
しかし、多田氏のようなケースは、いつなんどき、何人にも起こり得る
ことである。
もしオレだったらと思うと、身の竦むような思いがするとともに、
多田氏のように生きられるのかと自問させられる。


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