ぶっくぶくの部屋

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正月早々、銀座の天賞堂にドロボーが入った。
天賞堂と言えば、時計・宝飾の老舗で、オレも2、3回
入ったことがある。
たしか、時計売場は地下だったハズ。
よくもまあ忍び込めたもんだ。
かたや、ここらへんでは運動靴の盗難さわぎ。
犯人がつかまって、運動靴を眺めたり、匂いをかいだり
するのが好きという動機らしいから、いやはや、
「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」だ。

File No.108
『江戸の盗賊』−知られざる“闇の記録”に迫る−
丹野 顯(青春出版社 750円)
オススメ度★★★★☆

もっと早く読むんだった。
年末に誰かがオレの部屋を少し片付けたらしく、そこらじゅうに
散らばってた本をひとまとめに積んでいた。
その中に埋もれてたのがこの本。
そんなに読む気もなくて、ペラペラめくっていたら、がぜん
面白くなって一気通貫で読んでしまった。
これもいつものパターンではあるが…。
これには、江戸期の大盗賊の行状や、その取締り、裁きなどが
様々な史料を渉猟して、うまくコンパクトにまとまっている。
トップバッターは、日本人なら知らない人はいない超有名人の
石川五右衛門。
前書きに書いた辞世を遺し、釜茹での刑に処された大盗賊。
そして日本左衛門、鼠小僧次郎吉…と超大物が続く。
これに対する取り締まり方は、何と言っても、火付盗賊改
長谷川平蔵に尽きる。
その激職の在任期間の長さや、取り締まった件数の多さは
圧倒的に群を抜くものであったらしい。
オレたちは、時代劇や歌舞伎などで、大きく脚色された人物像
しか知らないが、実態はそんなもんではない。
その代表例は当時の刑罰。
江戸初期の頃は、窃盗は極刑に処せられた。
盗んだ金銭等の多寡や理由に拘わらず、である。
そして、連坐制や縁坐制も適用された。
要するに連帯責任ということ。
連坐・縁坐で有名なのは、豊臣秀吉による甥・秀次の処刑。
秀次当人は切腹したが、その正室・側室・子供ら一族郎党
39人を三条河原で斬首した。
五右衛門の処刑はその前年のことで、盗人10人・子1人・
同類19人という大量処刑だった。
見せしめとは言え、なんという過酷さだろう。
八代将軍吉宗の『御定書百箇条』によって寛刑となるのは、
ようやく18世紀も中ごろになってからである。
寛刑と言っても、10両以上盗めば死罪だから、今の感覚では
極刑である。
だから、時代劇でよく見られる
「遠島を申し付ける」とか「江戸追放」とかは、実際には
あまりなかったのではないだろうか。
でも、長谷川平蔵の偉かったところは、その取締りだけでなく、
「人足寄場」という更生施設を立ち上げ、その責任者も
兼ねていたこと。
取り締まり、拷問にかけて自白させ裁くだけでなく、法の
範囲内で時には人情にも理解を示し、軽犯については
その更生にも尽力したのだ。エライ!

これが★四つ?、と思うかもしれないが、あくまで個人的な
好みと独断によるもの。
それにしても評価甘すぎ?
まあ、正月だし、ご祝儀相場ということで…。
2010.01.09:ycci:count(1,145):[メモ/コンテンツ]
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