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山形が生んだ最高の《喜劇役者》伴淳三郎(ばんじゅんざぶろう)
通称;ばんじゅん

「一杯やっか!」「アジャパー」

アジャパーは山形弁の「アジャジャー」という感嘆詞に、伴淳が「パー」を加えた説有り。

伴淳三郎 道化の涙
1950年代、喜劇役者伴淳三郎は、一世を風靡した流行語「アジャパー」「いっぺえやっか」をたて続けにあみ出し、映画『二等兵物語』の大ヒット、"駅前"シリーズの連続ヒットで、スターの座にのぼりつめた。本書は、道化に徹して珍芸を演じ脚光を浴びたコメディアン"バンジュン"の実人生を調べあげ、再構成した実名小説であり、スクリーンの裏の悲しき人生を描く。

1 母のおもかげ
2 映画俳優"伴淳"誕生
3 喜劇映画のスターの座に
4 『二等兵物語』から『駅前旅館』へ
5 失意と女と信仰と
6 永遠の旅立ち

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伴淳三郎(1908-1981)
伴淳三郎(1908-1981)


俳優の伴淳三郎(本名鈴木寛定)は1908年(明治41)1月10日山形県米沢市で生れ
ました。お父さんは画家で、彼も絵がうまかったようです。小学校5年生の時
にそのお父さんが亡くなり丁稚奉公に出るのですが、うまく行かず、すぐクビ
になります。14歳の時に役者になろうと上京。大衆演劇の一座に入り修行を
積みました。

1928年に日活の「血煙高田の馬場」の端役で映画デビュー。これ以後、生涯
に約300の映画に出演しました。1935年に自分の一座を結成し、ここで清川
虹子と出会います。彼女との仲がどういうものであったのかは他人には伺い
知れない部分もありますが、結婚したり別れたりしながらも生涯の良き伴侶
であったようです。

1934頃に映画会社を大都に移り、この新天地で少しずつ重要な役どころが
得られるようになります。流行語ともなった「アジャパー」という言葉は
戦後になって1951年頃に使ったものだそうですが、戦後の映画にはコミカル
なものも多く「駅前」シリーズにも何度も出演していて、彼を「喜劇役者」
とみる人も多いでしょう。しかし彼の持ち味は本格派の映画でも十分に出て
おり、1965年の「飢餓海峡」は評価が高いようです。

私が彼の出演作で最も印象が強いのは1974年にNHKで放送された連続ドラマ
「帽子とひまわり」です。弁護士事務所を舞台に、スリや交通事故など、ごく
普通の事件の処理をしていく姿を描いたもので、刑事事件をネタにしていても
ありがちな「事件物」や「人生ドラマ」にならず、抑え気味の演出がとても
気持ちいい感じを出していました。林隆三と高橋悦史が共同で事務所を出して
いる弁護士で、伴はそこの調査員という役でした。

またCMではかなり長期間久光製薬のサロンパスのCMに出演していました。
また彼は他のタレントさんをマネージングする能力も高かったようで昭和41
~43年には大手芸能プロダクションの芸映の社長も務めています。

彼は平和主義者で良心的徴兵忌避者であったらしく、徴兵検査にはきれいに
お化粧して女装で出かけていき(さすが役者というところか)、彼を見た
検査係官は「何だ、お前は?帰れ帰れ!」とまさに門前払いしたといいます。

また彼は1963年「あゆみの箱」を独力で設立し、ポリオ(いわゆる小児マヒ)
にかかって苦しんでいる人たちの助けにと、街頭や劇場などで募金を呼びかけ
ました。その輪はその後多くの人たちに広がっていき、この活動は現在でも
続いています。

1981年10月26日死去。地元では彼を記念して時々映画祭などを実行している
ようです。

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