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▼明治文壇の論客

高山樗牛は、森鴎外との二度にわたる大論争でその名を世にとどろかせた。
大学在学中、歴史小説【滝口入道】が読売新聞の懸賞で優秀賞をとる。


財団法人郡山市文化・学び振興公社より以下引用

高山樗牛(林次郎)

1871(明治4)-1902(明治35)

 高山樗牛は山形県鶴岡の生まれ、父斎藤親信の兄高山久平の養子となった。久平が福島県庁に勤務したので福島に住み、福島中学校(現安積高校)に学んだ。明治 19年養父の東京転勤で中途退学したが、安高では樗牛が学んだ事を誇りにして樗牛賞を設けている。仙台の第二高校(現東北大学)の時、ゲーテ作『淮亭郎の悲哀』を訳した頃からペンネームを樗牛とした。古代中国の荘子の書からとったものである。

 東大在学中に読売新聞懸賞小説に匿名で入選したため話題となった。東大を卒業後、出版社博文館の雑誌「太陽」を編集して評論活動をした。文章は浪漫的美文調で明治期青年に広く読まれた。日本主義、ニーチェ主義、日蓮主義と短い三十二年の生涯に思想の遍歴をしている。日本近代化の思想の悲劇を象徴した文学であった。『日本美術史』で文学博士号を得る。ヨーロッパ留学を目前に病没した。


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●2006.10.29
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