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清河八郎(きよかわはちろう)

1830〜1863

出羽国田川郡清川村(現山形県東田川郡立川町大字清川)に庄内一の醸造石数を誇る酒屋斎藤家の長男として生まれた。幼名を元司といい、後の清河八郎の名は、故郷清川の川を大河の意味の河に変えて、故郷を立て称したと伝えられています。

青年時代に江戸の東条文蔵、安積艮斎、千葉周作らに学んで文武を修行し、その間近畿、西国、北海道地方を周遊し、また江戸神田に塾を開いて子弟の教育に当った。


1862年(文久2年)清河八郎は、将軍警護の名目で江戸の浪士を召し抱えるよう幕府に進言し「浪士組」を結成。京都へ上洛。

もっとも清河の真意は将軍警護ではなく、これを朝廷直轄の尊皇攘夷軍にすることにあったことから、清河に不満を唱えた芹沢鴨と近藤勇の各派は「浪士組」を離脱。京都守護職の任にあった会津藩の預かりで「新選組」を発足させた。

一方、清河の「浪士組」は江戸へ帰還させられ、当時江戸取締の任にあった庄内藩(鶴岡17万石、藩祖は徳川四天王・酒井忠次)の配下「新徴組」を結成。清河八郎の暗殺後は勤王色を一掃して庄内藩13代藩主 ・酒井左衛門尉忠篤の預かりとなり、江戸市中の警護にあたった。

ちなみに「新徴組」と「新選組」はともに「浪士組」から分かれた組織であるが、お互いに交流もあった。

例えば「新徴組」隊士の中川一と「新選組」局長の近藤勇とはお互いに手紙で交流を続けていたし、「新徴組」のちょうちんには、有名な「新選組」の山形模様が描かれていたという。

新人物往来社「新選組史跡事典〜東日本編」等より引用

清河八郎(きよかわはちろう)浪士組〜幕末の志士 --comment
清河八郎著「西遊草」岩波文庫

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清河八郎(きよかわはちろう)浪士組〜幕末の志士 --comment
清河八郎の明治維新 高野 澄 著
NHK Books

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