VERG Kiny note

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ある地域で著名な郷土史研究家がこう言った。

生けるものすべてのことを考え、自然を愛し、そこに生きる動物から命をもらって、

自然と共存していることを考えながら古代人は生きてきた。

これからの若い人はのもそれを見習い生きていかなければいけない。と

確かにそうなのだが、恐らくはその言葉を聞いても今の時代では、わかりにくいはず。

今動物から命をもらっているというより パックの中に入った冷凍の肉と言う食品でしかない。

以前は、もしかしたら自分で動植物をさばいて食料としたりしたものだろう。

そのさばく時に動物ならその体温だったり、したたる血液だったり、植物なら葉についた水滴だったり、

切り口から流れる樹液だったり、それを地かに感じていたものだろう。

その郷土史研究家は、そうした体験を持っているからそう言えるのだろう。

今の若い子達にそう言うことを言っても せいぜい猫や犬や鴨の動物虐待が

思い浮かぶのが普通だ

今の子供たちがそんな体験をすること自体難しい時代なのだ。

パックの解凍が済んでパックを空けたときに滴る血を水道の水で流すとき

少しは考えるのだろうか?それでもかなり血抜きされているはずだが。。

2006.02.24:K.Yコメント(0):[メモ/コラム]
小泉首相が 施政方針演説で 吉田松陰の言葉を引用した

安部官房長官も地元で松陰の言葉を引用したらしいが

たとえどんなところではてても 留めておこう大和魂

吉田松陰という人はグローバルに物を見てローカルに生きる

を唱えた人だと 今日の岩見隆夫さんの記事が載っていた

岩見さんといえばTVの政治評論家 毎日新聞特別顧問

ところで自分の周りはどうだろう 地元 →日本 →地球と考えて生きているだろうか

ゴミ問題は どうだろう 地産地消はどうだろう

モッタイナイはどうだろう 電気消費や燃料消費や自然保護

考えればきりが無いほど果せていないものばかりな気がする

一番果せていないのは モラルだろう

逆に悪くなる一方な気もする

自分の責任をまず取ってから 他の責任を追及すべきだと思うが

ヒューザーの社長や東横インの社長などは特にそう思う

大和魂はそういうことなんじゃないだろうか

まずは弱者に対する思いやりややさしさが必要なんじゃないのかと

つい思ってしまった

保身を平然と前面に出して話す彼らは 大和魂などかけらも見受けられない

あまりにあきれて つい書きたくなってしまった

2006.01.31:K.Yコメント(0):[メモ/コラム]
今日のMSNに 昨年の秋に教育現場で話題になった

いただきますを言わせなくてもいいんじゃないか というのが載ってた

母親が学校にあてた手紙のことで 給食費を支払う方がいただきますとは

言わせなくてもいいのではないでしょうかという

永六輔氏の”命に対するいただきます”のコメントも載せてあった

母親はお金を支払う側と支払ってもらう側の立場のことを言っているのだろうが

それは広義的な意味で 今のホリエモンと同じ金銭至上主義に相通じてしまう

危険性が潜んでいると思う

もちろん宗教的にしたり、全員で唱和したりするのも嫌だが

感謝ということがあるが いただきますも ありがとうも感謝が入っている

何に対して感謝するかという対象の問題なのだろう 

感謝の対象を目の前の支払う人にするか いただいた自然の命にするかだろう

コーヒーを注文したときにカップの下には皿がついてくる

多少こぼしたりしても飲むには 問題は無い

それでもこぼさずに運んできてくれる 

ときには皿まで暖めたもので運んできてくれる

海外でコーヒーを頼んだとき ほとんどと言っていいほどこぼれて運ばれてきた

皿やカップは店主が暖かくして入れて飲んでもらおうと

暖めておくようにしたのだろう

給仕係は こぼさずに運ぶ練習を仕事以外で練習したりホールの状況を気遣って

運んでいけるようにしてるのだろう

ありがとうやいただきますには育てることを目的として言われることもある

個人主義化する今 他人は他人としてそれを認めて育てるためにも

いただきますやありがとうを言わなくてはいけないのかもしれない

少なくても感謝されて嫌がる人は居ない そこには何かの和が存在する気がする

それと日本には 針供養とか草木塔とか自然や物に対して

畏敬と感謝を持ってきた史実がある

これは世界的にも認知されるところで それがMOTTAINAIと言う言葉を生んでいる

世界から言われて気づく前に 自分たちで気づく努力が必要だと思う

2006.01.25:K.Yコメント(0):[メモ/コラム]
人はつくづく 往路だけを見ても真実は見えないものだ

復路を見て初めて 見えてくる真実もあるものだ

まして個人の考えで行動してることを 外から眺めるだけでは

わかりづらいもの

そんな風に見るという時間を持たない 今の人たちは

そこまで 見えては来ないだろう

感動を与えてもらえたことに感謝しなければ



2006.01.18:K.Yコメント(0):[メモ/コラム]
少し堅くなった雪原を眺めて 車を止めてみた

寒いが晴れ間から差し込む日が それをやわらげてくれる

ふと気づくと 道のはるか向こうから 異様な遅い速度で

後方から 歩いて近づいてくる人影が目に入った

ゆっくりゆっくりと近づいてきた

手には細い杖を持っていた

どうしてそれほど遅いのかと思ったら 曲がった腰を伸ばしながら

止まっては歩き また止まっては歩き を繰り返しながらだったからだ

そして車の脇を通り過ぎ そこでまた止まって また歩き出していった

不思議に気になって見てると 彼は

50歩ほど歩くと 徐々に頭が前のめりになっていって腰の高さまで

下がってしまうと 30秒ほどひざに肘をついて休むか しゃがみ込んで休んだ

驚いたことに その道の先の交差点まで行くと 戻ってきたのだった

そうおそらく彼は リハビリというか運動をしているのだろう

50歩ほど歩いて 腰が90度近く曲がってしまうと 疲れるため

休憩を取って また歩くのだろう

何と歩くということが これほど重い運動になるんだろうか

自分もいずれは 訪れるだろうそのときに 彼のように

歯を食いしばって あんなに出来るんだろうか

そう思ったら なぜか ジンときてしまった

また彼は 私の横を通り過ぎたとき ちらっとこちらを見た

彼に尊敬をこめて 笑顔で返してやった

いつまでも お元気で

2006.01.18:K.Yコメント(0):[メモ/コラム]
足元で踏みつけた雪が きゅっきゅっと鳴る まるで鳴き砂のような音を出す

こんなときは 思い切りスキーのエッジを切っても 滑らかなカーブを描いて けられた雪は

粉となってふわりと舞いおちる

山頂近くのゲレンデでは 下がってきた雲に徐々に視界を奪われながらも

にょきっと突っ立った樹氷群が見えてきた

冷たく湿った風が吹き付ける 得意な気象条件で そこに育つ樹木に

風上に向かって えびのしっぽと呼ばれる氷の結晶が伸びて行き それ同士がくっついて 

木全体を覆ってしまうのを樹氷という

あるところでふと気づいたのだが 枯れた樹木には樹氷がついてないのだ

どう見ても同じ青森とど松に見えるのだが 枯れている状態だった

枯れた木は 湿った空気を通してしまうので 樹氷が出来にくい

何か切ない現実に直面した気分だった

枯れた樹木の林が広がりかなり目に付く

ここの観光協会HPもそうだが どこのを見ても 食べる 見る 遊ぶ だけが書き込んであって

どうやってそこの自然や環境を維持してるかなど 書かれているところはほとんどない

かろうじて 世界遺産に指定されたところなどでは そういう取り組みを書き込んであったりするが

まずない

思いで作りに行く人がほとんどなのだから 汚しにいくわけが無いと思う

食べる 見る 遊ぶ 守る があってもいいのではないだろうか

確かに 地元の又は日本の保全運動だけでは 中国や 北朝鮮の汚染された粉塵が飛んできて

影響を及ぼさないわけも無いのだが まずは自分からやることの意思表示が大切だと思う

写真はボケているが蔵王の樹氷

2006.01.17:K.Yコメント(0):[メモ/コラム]
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