川中島合戦の歴史

 NHKの大河ドラマ「天と地と」で火がついた謙信ブームは、上杉まつりを全国的なものに押し上げた。そうしたなかで昭和48年「川中島模擬合戦」が誕生した。
 この合戦演出に一番苦慮したのは事務局であるが、合戦を提案した実行委員たちには明治38年の川中島合戦(模擬)や戦時中の同様のイベントが印象に残っていたので、容易に実施できるものと考えていた。
 その時代はいずれも戦争遂行に必要な士気の高揚のための催しであった。
 48年の川中島模擬合戦の再現は、その点まったく背景を異にしていた。
また、そのための特別要員を獲得することも出来ず、予算も現行のままでの実施を余儀なくされた。
 上杉行列を相生橋東口で一時ストップし、その下の東側の河原で、30分の時間を使っての合戦であった。
 武田軍は信玄を入れて5人、騎馬の謙信は佐藤幸吉郎(蹄鉄師:現在の謙信公役である民謡一家佐藤仁氏の父)が引き受け、稲富流砲術隊の火縄銃や槍組に支援されての、豪快な切り込みとなったが、5人の武田勢は文字通り青ざめた。事務局の苦肉の策であった。
 しかしその反響は予想外に大きく、観衆は相生橋に鈴なりとなり、声援を送った。
 翌49年5月3日、この催しは松川河川敷にその会場を設け、行列の一部のコースを短縮して要員を確保、合戦場面を再現した。演出は米沢女子短大の上村教授、武てい式に続いての陣頭指揮であった。
 しかし、武田軍になり手がなく、市役所職員と実行委員長の会社の沖正宗(浜田酒造)社員で辛うじてその体裁を整えたのである。
 現在のこの合戦の演出や参加人数に比べれば、極めて零細な規模で、演技も稚拙であった。
 上杉勢は上杉行列の参加者をそのまま投入し、武てい式(略式)や騎馬のデモンストレーション、稲富流砲術隊の火縄銃の発砲、車懸りの戦術、三太刀七太刀の名場面を見せ場にシナリオが書かれた。
 対する武田勢は、三献の儀(武田軍の出陣式)や赤備軍団による鶴翼の布陣を見せ場にした。最近になって武田軍の主力となった米沢市役所職員により「川中島合戦保存会」が結成され、演出も円熟を見るようになった。
 この合戦への参加者は上杉勢400名、武田勢260人と規模も膨らんだ。
昭和49年の合戦は日本テレビで初放映され、以来マスコミの人気も高まり、春のゴールデンウィークを飾る東北のまつりとして全国に知られるようになる。
 武てい式、川中島合戦の演出も時代に合わせて創意工夫がほどこされ、見るものに一層の歴史感を漂わせている。

2008.03.08:[上杉まつりの由来]