HOME > 上杉まつりの由来

米沢の春まつり

 現在「米沢上杉まつり」と呼ばれる米沢の春まつりは、戦前は「県社(上杉神社)のまつり」とか、「城下のまつり」といわれ、当時は4月28日から30日までの3日間で、神輿渡御は4月28日におこなわれていた。そして市民にとってこの「まつり」は明治の頃から米沢の重要な祝日となっていた。毎月2日及び3大祝祭日のほか、上杉神社例祭(4月29日から30日)が従業員の公休日であった。
 時代が進むにつれて、掛茶屋やサーカスや見世物小屋、露店なども立ち並ぶようになった。もちろん祭礼のメインイベントは「神輿渡御」であったが、その神輿渡御に旧士族有志の尚武要鑑会のメンバーが、先祖伝来の甲冑に身を固め供奉するようになったのは大正末期からである。
 そのまつりも戦争が激しくなって一時姿を消し、戦後復活するのは昭和22年ごろからである。
 昭和23年4月5日の米沢新聞は「花と祭の2重奏/豪華に繰り展げる5日間の色々な催し」という3段見出しで次のように報じている。
 市内上杉、松岬両神社の春季例大祭は、28日から来月2日まで挙行されるが今年は盛大な各種行事を行うことになり、社務所並に両神社振興会、各町青年団等で準備を進めている。
 この期間は、松岬公園の桜花も爛漫とほほえむものと見られ、花とお祭りの豪華版が展開されることになった。公園脇の運動場には、見世物も数種かかることになっており、吾風会の県下美術展も工業学校で催される。
 又29日から2日までは春の米沢競馬が、八幡原競馬場で行われる。

 主なものの日程は
  ◇28日=上杉神社前夜祭と松岬神社産業祭
  ◇29日=上杉神社例大祭、松岬神社前夜祭、仮装行列
  ◇30日=松岬神社例祭、芸能コンクール(能楽殿)
  ◇5月1日=神輿渡御
  ◇5月2日=芸能コンクール第2回(能楽殿)

 1日の神輿渡御は、午前9時出発。次の順路で行われる。
上杉神社-花岡町-東町-大町-駅通り-信濃町-駅-住之江町-大町-門東町-松岬神社。(昼食)-屋代町-門東町-大町-立町-粡町-銅屋町-粡町辻西-座頭町-信夫町-木場町-西部校-下矢来-御廟町館山口町-桂町-仲間町-北堀端町-屋代町-還御。
 また29日の懸賞仮装行列の順序は次の通り。
武徳殿前-大町-柳町-門東町-立町-粡町-座頭町-周防殿町-表町-屋代町-武徳殿前。
2008.03.12:[上杉まつりの由来]

商工まつりと広告仮装行列

 昭和23年ごろからようやく復活した上杉神社の行列と催事は、戦後の娯楽不足の市民生活にとって、1年の中の最大の「まつり」として歓迎された。
 しかし、その実行体制は、上杉・松岬両神社の信仰会や市内の青年団らの奉仕、それに甲冑行列として米沢要鑑会(宮坂善助会長)の特別参加が主体で、比較的小規模なものであったが、4月28日から5月2日までの間、市内の美術団体等の参加や、桜や見世物などが加わって「まつり」全体は盛り上がっていた。
 その春まつりに、米沢商工会議所が参画し県内でも有数のまつりに盛り上げた。
 昭和25年4月28日から5月3日までを第1回「商工まつり」とし各種商店街イベントや売出セールを展開するとともに、4月30日には「広告仮装行列」を創始した。昭和26年からこの「広告仮装行列」は5月3日(憲法記念日)に実施することになり、定着する。一方、上杉・松岬両神社の「神輿渡御」は5月1日に実施され、2日間にわたる2つの行事で市内は賑わった。
 25年の「米沢新聞」4月26日号から、その報道記事を要約してみる。
 米沢商工まつり広告仮装行列は30日午前9時興譲小学校庭を出発、市内を行進 して午後4時終了の予定であるが、順路は次の通り決定。
興譲校-屋代町-花岡町-南町-東町-大町(置賜病院前で審査)-交番所-東寺町-今町-旭町-駅前-住之江町-大町-(信組合前で2次審査)-興譲校(昼食、午後1時出発)-東宝映画館脇-北堀端町-桂町-館山口二学の町-番正町-門東町-御守町-周防殿町-座頭町-粡町-立町-米屋左折-東陽堂右折-門東町-配電会社-興譲校庭「神輿渡御」のコースと考え合わせれば大変な範囲の運行であった。
 これは交通事情が緩やかであったためと、仮装行列が当初はそれほど大規模でな かったからかもしれない。

 昭和27年の第3回は、NHK米沢放送局祝賀の「さくら祭り」で市との連携も強まり、昭和31年からは「米沢まつり」に改称、7回目を迎えたその年の仮装行列では、「二等兵物語」の映画のヒットで一躍有名になった伴淳三郎(米沢市出身、元吉池米沢市長の従弟)が特別参加し、空前の賑わいを見せた。
 その後昭和33年のまつりは米沢市制70周年記念の祝賀で盛り上がるが、その前年の第8回仮装行列でも参加者45団体・1000人となり、行列は延々2キロメートルにおよんだ。またこの時期から県内内陸一円に宣伝キャラバンを派遣、周辺からの誘客にも力が入っていた。
 翌33年からは米沢市役所音楽隊も加わり、福島県や仙台市など隣県への宣伝も、かなりの期間続いた。
2008.03.11:[上杉まつりの由来]

最盛期の頃の仮装行列

 この広告仮装行列は、その後も人気を上昇させながら、県内でも有数のイベントとして急速に盛り上がっていった。
 行列当日、沿道の人出30万人というフィーバーぶりをみせた昭和37年の第13回の盛大ぶりを、当時の「米沢商工会議所報」(第64号)が次のように報じている。
恒例春の米沢まつりは・・・・5月3日の棹尾に第13回広告仮装行列を配して盛大に豪華に実施した。
 とくに今年は米沢藩の伝統を誇る神輿渡御と甲冑武者行列が合流、・・・・
 また、陸上自衛隊音楽隊の特別演奏パレード・前夜祭特別演奏会、それに空から航空自衛隊第4航空団のジェット機5機が見事な編隊パレード、アクロバットで協賛、春まつり始まって以来の空陸一体の大祭典となった。
 このほか期間中は多彩な催しで彩られた。

 この間の人出は延べ30万人、ゴールデンウィークを大いに楽しんだ・・・・
 この人出に対処し米沢駅では期間中延べ25輌の臨時列車を増結、山形交通でも臨時バスを繰り出し、期間中のバス客数は昨年よりもおよそ5千名の増となった。
 仮装行列は今年から3部制の新しいシステムをとったが、参加者24団体・個人で、内容の伯仲した出し物で入賞が競われ、その結果粡町商店会の「助六とおいらん道中」が第1部特等に、・・・・昨年優勝の弁天通りは「新作夕鶴」で連続優勝を狙ったが、運行上の事故があり、惜しくも3位に転落した。
 なおこの年の特別参加は市職員の「幌馬車米沢を行く」、米織組合の「はばたく米織」、米沢日報の「ミスよねざわオンパレード」、それに米沢信用金庫が特別協賛で花を添えた。

 米織と市職組が特別参加となったのは、市制施行70周年記念祝賀をこめた33年度(第9回)からで、この年の米沢市職組は百数十万円を投じて「古今三千年時代風俗絵巻」、米織青年連合会は六十数万円を投じた「織姫カーニバル」で豪華を競った。この広告仮装行列は、このころからピークに向かうが、その主役は、特別参加の米織、市役所と主要商店会であった。この広告仮装行列の導入で、米沢の春まつりは、東北にもその名を轟かすようになるが、その後商店会の人手不足や予算難の問題もあり、また世の中がテレビ時代に入って娯楽情報も増えたこと等々から、昭和41年(第17回仮装行列)からコンクール形式を廃止、各団体の協賛参加に切り替え、さらに、神社行列と仮装行列(甲冑)の1本化の方向へ進むこととなる。
2008.03.10:[上杉まつりの由来]

市民ぐるみの上杉まつりへ

 この「米沢まつり」は、昭和38年に「春の米沢上杉まつり」に改称され、米沢市・米沢商工会議所・米沢織物協同組合連合会・米沢観光協会が主催団体となり、商工会議所に事務局を置き、第2期の上杉まつりの新しい構想の検討が始まる。
 このころから歴史ブームが芽生え、退潮した仮装行列に代わり、上杉の城下町としての雰囲気を共闘した催事が台頭する。その現れの一つが武てい式(39年)であり、現在に続くが、実行組織も43年に「米沢上杉まつり実行委員会」として発足、市と商工会議所職員の出向および臨時職員による独立事務局が設置された。
 初めの頃は仮事務所で転々とし、現在の観光協会に定着するのは昭和55年である。また、41年からコンクールを廃止、甲冑行列を強化して「上杉軍団行列」とし、神輿渡御を加えてその総称を「上杉行列」としたのは43年からである。
 さらに米織青年連合会が制作した新民謡「米沢新調」を市民に普及させるために「米沢新調パレード」(昭和46年米沢民踊流しとなる)がこの年からまつりの開幕イベントとして加わり、このまつりに厚みが増す。
 翌44年は、上杉謙信を主人公としたNHK大河ドラマ「天と地と」をテーマに編成され、謙信の少年時代の傅役 金津新兵衛を演じた俳優高松英郎も特別参加、期間中の人出は40万人を記録した。昭和48年になって「川中島合戦」が導入され、翌49年の「川中島合戦」は、日本テレビによって全国へ生中継された。
 この時期、上杉行列や川中島合戦の主要な中核団体として、上杉・松岬両神社信仰会・米沢市役所・米織連合会・米沢市農協・米沢酒造組合・米沢市商店連合会の協力が続き現在に至っている。
 上杉まつりのテーマソングとなった「これぞ天下の上杉節」(だいご昭作詞・佐藤時志作曲。安藤由美子歌)が発表されるのは46年。小学校の鼓笛隊参加もこの年に実現して、このまつりは新たな盛り上がりを見せる。
 そして、昭和46年には、「市民ぐるみ」を標榜して、旧市内1戸100円、周辺地区1戸50円の市民募金が実現する。63年度におけるこの市民募金は1戸一律220円となり、上杉まつり総事業費の約4分の1を占めるようになった。
2008.03.09:[上杉まつりの由来]

川中島合戦の歴史

 NHKの大河ドラマ「天と地と」で火がついた謙信ブームは、上杉まつりを全国的なものに押し上げた。そうしたなかで昭和48年「川中島模擬合戦」が誕生した。
 この合戦演出に一番苦慮したのは事務局であるが、合戦を提案した実行委員たちには明治38年の川中島合戦(模擬)や戦時中の同様のイベントが印象に残っていたので、容易に実施できるものと考えていた。
 その時代はいずれも戦争遂行に必要な士気の高揚のための催しであった。
 48年の川中島模擬合戦の再現は、その点まったく背景を異にしていた。
また、そのための特別要員を獲得することも出来ず、予算も現行のままでの実施を余儀なくされた。
 上杉行列を相生橋東口で一時ストップし、その下の東側の河原で、30分の時間を使っての合戦であった。
 武田軍は信玄を入れて5人、騎馬の謙信は佐藤幸吉郎(蹄鉄師:現在の謙信公役である民謡一家佐藤仁氏の父)が引き受け、稲富流砲術隊の火縄銃や槍組に支援されての、豪快な切り込みとなったが、5人の武田勢は文字通り青ざめた。事務局の苦肉の策であった。
 しかしその反響は予想外に大きく、観衆は相生橋に鈴なりとなり、声援を送った。
 翌49年5月3日、この催しは松川河川敷にその会場を設け、行列の一部のコースを短縮して要員を確保、合戦場面を再現した。演出は米沢女子短大の上村教授、武てい式に続いての陣頭指揮であった。
 しかし、武田軍になり手がなく、市役所職員と実行委員長の会社の沖正宗(浜田酒造)社員で辛うじてその体裁を整えたのである。
 現在のこの合戦の演出や参加人数に比べれば、極めて零細な規模で、演技も稚拙であった。
 上杉勢は上杉行列の参加者をそのまま投入し、武てい式(略式)や騎馬のデモンストレーション、稲富流砲術隊の火縄銃の発砲、車懸りの戦術、三太刀七太刀の名場面を見せ場にシナリオが書かれた。
 対する武田勢は、三献の儀(武田軍の出陣式)や赤備軍団による鶴翼の布陣を見せ場にした。最近になって武田軍の主力となった米沢市役所職員により「川中島合戦保存会」が結成され、演出も円熟を見るようになった。
 この合戦への参加者は上杉勢400名、武田勢260人と規模も膨らんだ。
昭和49年の合戦は日本テレビで初放映され、以来マスコミの人気も高まり、春のゴールデンウィークを飾る東北のまつりとして全国に知られるようになる。
 武てい式、川中島合戦の演出も時代に合わせて創意工夫がほどこされ、見るものに一層の歴史感を漂わせている。

2008.03.08:[上杉まつりの由来]
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