米沢城下の西側にそびえる愛宕山(555m)と羽山(534m)には 愛宕神社 と羽山神社が祀られていますが、両山の登山口にあたる地蔵院には2つに神社を合祀した「愛宕羽山両神社」が建てられています。8月1日の例大祭には「愛宕の火祭り」の松明行列とともに2つに神社の神輿が城下から地蔵院まで駆け上がります。
愛宕羽山両神社の地図 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 【大河ドラマ 八重の桜】 米沢にも暮らした八重 ![]() 福島県 八重をもっと知り隊 事務局 ![]() 会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
全国に約900もの社があると言われる愛宕神社。その一つが米沢市にもあります。京都市右京区にある総本社のように米沢の愛宕神社も山の頂上に建てられており、歴史は古く上杉家入部以前の蒲生氏、伊達氏、長井氏の時代までさかのぼります。8月1日の例大祭の日は早朝に市民登山が行われ、夕方は「愛宕の火祭り」が開催されています。登山口にあたる「地蔵院」には愛宕羽山両神社の社もあります。
麓の地蔵院にある愛宕羽山両神社。 地蔵院から2.2km先の愛宕山山頂を目指します。 愛宕神社が建つ標高555m、愛宕山山頂に到着。 8月1日は早朝から登山者で賑わう愛宕神社。 山頂から望む早朝の米沢南西部〜南東部。 夕方から開催される「愛宕の火祭り」 米沢城跡の近くから神輿と松明行列が地蔵院を目指します。 愛宕神社には上杉鷹山公も「雨乞い」のため参拝されました。 愛宕山の麓 地蔵院の地図 米沢の愛宕神社の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
羽黒神社(はぐろじんじゃ)の縁起は、大同元年(806年)と伝えられており、米沢市内にある 笹野観音堂 とならび大変歴史のある社です。現在の社殿は棟札から天明8年(1788年)6月15日に再建されたものと考えられています。近年社殿に老朽化による重大な痛みが確認され、平成20年(2008年)から行われた平成の大改修により現在はその美しい姿を取り戻しています。尚、社殿の再建ならびに修築については、伊達政宗公、直江兼続公も行ったと伝えられています。
羽黒神社は、米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」が江戸から米沢に入れらた生涯の師「細井平州」先生を出迎えられた場所として、同地区の 普門院 とともに 上杉治憲敬師郊迎跡 として国指定史跡となっています。 羽黒神社の地図 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 【大河ドラマ 八重の桜】 米沢にも暮らした八重 ![]() 福島県 八重をもっと知り隊 事務局 ![]() 会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
平成20年(2008年)から始まった 上杉治憲敬師効迎跡保存修理事業 は、昨年度で 羽黒神社 本殿の修復工事が完了し、今年度からはいよいよ 普門院 の工事が始まります。普門院の修復工事期間は羽黒神社の4年間より更に長く7年間にも及びます。如何に歴史建造物の修復作業が大変であるかが伺えます。
山形新聞 2008年(平成20年)8月27日(水曜日)紙面 ![]() 年次計画表(米沢市文化課資料) ![]() 見事に美しく保存修理された羽黒神社の本殿。壮観です! 今年度から保存修理事業が始まる普門院 。 羽黒神社の地図 普門院の地図 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 【大河ドラマ 八重の桜】 米沢にも暮らした八重 ![]() 福島県 八重をもっと知り隊 事務局 ![]() 会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
洞昌寺(とうしょうじ)は、天文23年(1554年)に上杉景勝公(喜平次)と直江兼続公(与六)が幼少の頃共に学んだ 雲洞庵 の末寺として越後に創建されたお寺です。その後上杉家の会津120万石移封、米沢30万石減封に従い会津、米沢と移されましたが、米沢の地では城下から遥か遠く離れた山奥に再建されています。寺の更に山手には「白布温泉」があり、そこには直江兼続公の指示で幕府に隠れて秘かに火縄銃を製造するための 鍛造工場 が造られました。寺に武器武具を配備し防衛の拠点として位置づけていた直江兼続公は、藩の最重要機密である 火縄銃製造 という秘密を守るため、数ある寺の中から最も信頼の置ける「洞昌寺」を選び配置したものと思われます。
城下から遥か遠く離れた山奥に再建された米沢の「洞昌寺」。 藩の最重要機密を守るための拠点だった「洞昌寺」。 洞昌寺の地図 ※地図上に「 卍 」の標記はありません。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 【八重の桜】 米沢にも暮らした八重 ![]() 福島県 八重をもっと知り隊 事務局 ![]() 会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
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その説の一つに「愛染明王説」があります。直江兼続の主君上杉景勝公の兜には、大日如来の日輪に「愛染明王」(あいぜんみょうおう)の四文字が刻まれている前立てが実在しています。このことに合わせて直江兼続公は米沢城から見て辰巳(南東)の吉方角上に、大日如来と愛染明王の社を二つ並べて建てています。同一方位線上の米沢城側(内側)に大日如来、外側に愛染明王という建て方から見える上下関係は明らかで、兜の前立てについてもこの関係を共有させたのではないかと考えられています。
現在の社は大正8年(1919年)の米沢大火後に再建された建物です。
大火の中、氏子さんの一人が家財ではなく愛染明王を背負って避難され難を
逃れました。
愛染明王のご開帳は7月1日の例大祭日と元旦の年間2日間のみです。
拝観ではなくお参りするという気持ちならこの2日間に限り見ることが出来ます。
米沢直江会 直江兼続公 山車人形。
愛染明王については、地図による位置情報表示を自粛致します。
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