上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

米沢城は、鎌倉時代(1238年頃)に長井時広によって築城されたと伝わっています。長井氏の時代は松岬城(まつがさきじょう)と呼ばれており、その後居城とした伊達氏の時代から米沢城という呼び方に変わりました。城の正面は現在の東門とは違い北門で、伊達氏の後の蒲生氏まで北門が正面とされていました。その名残りで今でも北門から真っ直ぐ北に延びる通りに面した町を「表町」と呼ぶことがあります。慶長6年(1601年)上杉景勝公の米沢城入城に際し、直江兼続によって正面は北門から東門に改修されました。

かつて米沢城の正面だった北門。


明治6年(1873年)までは三階建の櫓(御三階)もありました。


米沢城跡 北門の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
かつて米沢城には本丸の他に二の丸、三の丸まで堀がありましたが、明治6年(1873年)に城が取り壊されると二の丸、三の丸の堀は埋められてしまいました。現在は本丸の堀とほんの僅か二の丸の堀が残るのみとなっています。
城が取り壊された後は市民に開放され、昭和40年代までは児童遊園地もあり、堀では魚釣り(現在は禁止)やザリガニ釣り、また近くには中学校と高校が隣接していたため大変賑やかな一角でしたが、今ではその面影も見られずひっそりとした雰囲気に包まれることが多くなってしまいました。


同じ位置からの冬景色。


厳しかった冬の後の桜の季節が一番です。


まさに明鏡止水。映り込む満開の桜がとても綺麗です。


米沢城跡 本丸の堀の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢城跡北門の西側の堀には蓮が植えられています。米沢では例年8月上旬頃からちらほらと花が咲き始め、お盆の頃には満開を迎えます。ひと昔前には土壌や水質の問題で全滅してしまった時期もありましたが、関係者の方々のご努力が実り見事に復活しました。近年はその面積も広がり益々綺麗に咲き誇っています。


朝もやが晴れて朝日が差し込み始めた頃。




米沢城跡 本丸の堀 蓮の花の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢にお見えになる際は、事前にガイドさんを予約してみませんか。上杉神社周辺なら無料でガイドして頂けます。わかりやすくて楽しいお話が沢山聞けますよ。ご予約、お問い合わせは下記のリンクをクリックして下さい。

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上杉神社周辺以外でもガイド可能です。(画像は米沢市 春日山林泉寺 直江兼続公夫妻墓所前)


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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により上杉景勝公は越後から会津120万石に移封され、同時に直江兼続公は領内の米沢30万石(実質6万石)を拝領しました。現在松岬神社が建つこの場所は、米沢城主となった直江兼続公の屋敷があった場所です。しかし慶長6年(1601年)の上杉家米沢30万石減封により直江屋敷は移動し、その後は上杉家の世子御殿となりました。

明治35年(1902年)、明治政府から上杉神社が「別格官弊社」に列せられ祭神は上杉謙信公のみとされため、上杉鷹山公をともに祀ることが出来なくなり、大正元年(1912年)、上杉鷹山公を祀る神社として松岬神社が創建されました。更に上杉景勝公を合祀し昭和13年(1938年)には直江兼続公も合祀されています。その他にも上杉鷹山公の師である細井平洲、上杉鷹山公の家臣の竹俣当綱、莅戸善政が祀られています。

会津120万石時代、米沢城主直江兼続公の屋敷があった場所です。


上杉景勝公、上杉鷹山公、直江兼続公を祀る県社指定の松岬神社。


境内には上杉鷹山公が隠居される際に次代上杉治広公に贈られた国を治める心得「伝国の辞」の石碑があります。(上杉鷹山公 伝国の辞でご紹介します)


松岬神社の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」は、10歳の時に日向国(宮崎県)高鍋藩秋月家から上杉家の養子となられ17歳で家督を相続されました。その後35歳の若さで次代上杉治広公に家督をお譲りなられた鷹山公は、お住まいを米沢城本丸御殿から二の丸へと移されています。ご逝去される72歳まで藩政の改革にお力を注ぎながらお過ごしになられたお屋敷が餐霞館(さんかかん)です。

米沢城本丸の菱門橋を渡り二の丸にあった上杉鷹山公隠居所「餐霞館」。


訪れる人の姿もなくひっそりと静まり返っています。


なせばなる・・・米沢の子供達はその教えに触れながら育ちます。


餐霞館前の通りは、お忍びでお出かけの際通られた道で「お忍び小路」と呼ばれていました。


上杉鷹山公隠居所 餐霞館跡の地図


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)