米沢市の上杉神社は、明治4年(1871年)にかつての米沢城本丸御殿跡に上杉謙信公と上杉鷹山公を祭神として創建されました。その後、明治35年(1902年)、明治政府から別格官弊社(それまでは県社)に列せられ、祭神は上杉謙信公のみとなりました。国の登録文化財に指定されています。
かつて米沢城本丸の正門は北門でしたが、上杉景勝公の米沢城入城とともに直江兼続公によって現在のような東門に改められました。東門に架かる石造りの橋は、明治になってから架けられた国の登録文化財「舞鶴橋」です。 全国に27ある別格官弊社(べっかくかんぺいしゃ)の一つ。日光東照宮、久能山東照宮と同じ社格です。 正式にはこの鳥居の先が上杉神社となります。 2つ目の鳥居をくぐると本殿です。 創建当初の社殿は、大正8年(1919年)の米沢大火によって焼失してしまいました。現在の社殿は大正12年(1923年)に再建された社です。設計は米沢出身の伊東忠太先生です。 上杉神社の地図] ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
米沢城は、鎌倉時代(1238年頃)に長井時広によって築城されたと伝わっています。長井氏の時代は松岬城(まつがさきじょう)と呼ばれており、その後居城とした伊達氏の時代から米沢城という呼び方に変わりました。城の正面は現在の東門とは違い北門で、伊達氏の後の蒲生氏まで北門が正面とされていました。その名残りで今でも北門から真っ直ぐ北に延びる通りに面した町を「表町」と呼ぶことがあります。慶長6年(1601年)上杉景勝公の米沢城入城に際し、直江兼続によって正面は北門から東門に改修されました。
かつて米沢城の正面だった北門。 明治6年(1873年)までは三階建の櫓(御三階)もありました。 米沢城跡 北門の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
かつて米沢城には本丸の他に二の丸、三の丸まで堀がありましたが、明治6年(1873年)に城が取り壊されると二の丸、三の丸の堀は埋められてしまいました。現在は本丸の堀とほんの僅か二の丸の堀が残るのみとなっています。
城が取り壊された後は市民に開放され、昭和40年代までは児童遊園地もあり、堀では魚釣り(現在は禁止)やザリガニ釣り、また近くには中学校と高校が隣接していたため大変賑やかな一角でしたが、今ではその面影も見られずひっそりとした雰囲気に包まれることが多くなってしまいました。 同じ位置からの冬景色。 厳しかった冬の後の桜の季節が一番です。 まさに明鏡止水。映り込む満開の桜がとても綺麗です。 米沢城跡 本丸の堀の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
米沢城跡北門の西側の堀には蓮が植えられています。米沢では例年8月上旬頃からちらほらと花が咲き始め、お盆の頃には満開を迎えます。ひと昔前には土壌や水質の問題で全滅してしまった時期もありましたが、関係者の方々のご努力が実り見事に復活しました。近年はその面積も広がり益々綺麗に咲き誇っています。
朝もやが晴れて朝日が差し込み始めた頃。 米沢城跡 本丸の堀 蓮の花の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
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上杉時代館のノートには「おしょうしなガイド」さんから聞いたお話がぎっしり書き込まれています。 上杉神社周辺以外でもガイド可能です。(画像は米沢市 春日山林泉寺 直江兼続公夫妻墓所前) おしょうしなガイドさんについてのお問い合わせは下記のリンクからどうぞ♪ 上杉の城下町 米沢 観光情報 - 米沢観光物産協会 トップページの右列「お役立ち情報」からお入り下さい。 おしょうしなガイドさんの地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
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長い冬の後の春を喜ぶように桜が満開となった米沢城跡と舞鶴橋。
夏は舞鶴橋の脇を打ち上げ場所として「水上花火大会」が催されます。
「毘」と「龍」の旗がたなびく舞鶴橋。
橋の下の堀には鯉が、周囲には鳩が沢山います。どちらも餌付けを楽しめます。
米沢城跡 舞鶴橋の地図
上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)