舞鶴橋を渡り米沢城跡本丸に入るとすぐ右手に上杉謙信公像があります。等身大のブロンズ像で昭和49年9月28日に建立されました。右手に采配、左手には刀、戦装束にて越後上越 春日山城の方角を静かに見据え鎮座されております。そのお姿を見ていると今にも采配が振られ本陣に「懸り乱れ龍」の旗が立ち上杉軍の総攻撃が始まりそうです。
視線を越後国上越春日山城の方角に向け鎮座されている上杉謙信公像。 上杉謙信公家訓十六条の石碑 【宝在心】 おしょうしなガイド M様作成資料より引用。 ![]() 上杉謙信公像の地図 上杉謙信公家訓十六条の石碑の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
慶長6年(1601年)米沢城に入城した上杉景勝公は、直江兼続に上杉謙信公祠堂(御堂)の創建を命じました。
天正6年(1578年)3月13日、越後春日山城で亡くなられた上杉謙信公のご遺骸は、甲冑姿で甕に納められ周りを漆でしっかりと固められていました。会津移封により越後の地を離れ、その後米沢減封により米沢へと移されていました。 上杉謙信公の存在はその死後も家臣団の精神的な支えであるとともに、減封による苦悩下において家臣団の心を一つにする象徴でした。 米沢城本丸跡の南東部。高台になっているのが分かります。 明治9年までこの高台に上杉謙信公のご遺骸が安置されていました。 現在は歴代藩主が眠る上杉家御廟所に安置されています。 祠堂(御堂)の建物は長命寺の本堂として現存しています。 上杉謙信公祠堂跡の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
大正8年の米沢大火によって焼失した上杉神社は大正12年(1923年)4月再建されました。時を同じくして上杉神社稽照殿(けいしょうでん)が開館しています。上杉謙信公、上杉景勝公、上杉鷹山公、直江兼続の遺品を中心に多数の重要文化財を収蔵しています。国の登録文化財です。
上杉神社本殿の正面右隣が稽照殿です。 上杉謙信公がご愛用なされた【馬上杯】がございます。どうぞお見逃しなく。尚、設計は上杉神社と同じく米沢出身の伊東忠太先生です。 直江兼続公の【愛の兜 甲冑】もこちらの稽照殿で所蔵展示されています。(画像は米沢市観光PRポスター) ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」は、宝暦元年(1751年)に日向国(宮崎県)高鍋藩秋月家の二男として誕生され、10歳の時に上杉家へ養子として入られました。16歳で元服し治憲(はるのり)と改名、17歳で上杉家の家督を継がれています。35歳で隠居され、52歳の時には鷹山(ようざん)と改名、ご逝去される72歳までその生涯を米沢のため民のために捧げられました。膨大な借金に喘ぎ廃藩寸前だった米沢藩を見事に黒字の健全な藩に復興し豊な米沢を造られた名君でございます。
産業の振興、質素倹約、文武の奨励、自ら先頭に立ち実践されました。 藩政の改革に望む強い決意が込められています。 皆さんご存じの「なせばなる・・・」は上杉鷹山公が詠まれた歌です。 米沢市上杉博物館 学芸員 角屋先生 作成資料より引用。 ![]() 上杉鷹山公像の地図 「民の父母」の石碑の地図 「なせばなる」の石碑の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
米沢城跡本丸の南側に堀をまたいで架けられている赤い橋が「菱門橋」です。かつては上杉家の藩主以外渡ることが許されていなかったという由緒ある橋です。本丸からこの橋を渡り二の丸に出ると、この先には上杉鷹山公が隠居された餐霞館(さんかさん)がありました。米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」も橋の上からこの景色をご覧になられたかと思うとつい歴史ロマンに引き込まれてしまいます。菱門橋は別名「たいこ橋」とも呼ばれています。
春の桜と「菱門橋」。上杉神社周辺は桜の名所となっています。 このアングル、パンフレットや情報誌でご覧になられた方も多いと思います。 初冬の冬枯れの中、「菱門橋」の綺麗な赤が景色に彩りを添えています。 今は誰でも渡ることが出来る「菱門橋」は「秘し門」から名付けられたました。 米沢城跡 菱門橋の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
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昭和56年(1981年)にようやく現在の場所に落ち着いた春日神社。
新潟県上越市の春日山神社。米沢の春日神社から分霊し祀られています。
春日神社の地図
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