【米沢の史跡】 直江兼続公が造った防衛機能「寺町」に掲載しました
「御城下絵図」に書き込まれている家臣団と寺について記述します。 国宝上杉文書一八七四号 「御城下絵図」 米沢市上杉博物館所蔵。 許可を得て掲載しています。 ※絵図上の文字は上杉時代館が書き入れたものです。 侍 組 上杉家最上級家臣団で、上杉一族を中心に高家衆、壱番衆、弐番衆、参番衆、 四番衆、御年寄衆から成る越後以来の国衆家臣団と武田一族から成る家臣 団です。 三 手 組 上杉謙信公の旗本の馬廻組、上杉景勝公の旗本の五十騎組、直江兼続公の 旗本の与板衆から成る家臣団です。 御 徒 組 上杉定勝公(上杉景勝公の子、慶長9年1604年5月誕生)の小姓と直江兼続公、直江兼続公正室お船の方様の小姓を務める旗本から成る家臣団です。 直 峯 衆 直江兼続公の生家である樋口家の家臣団です。 御 守 組 上杉謙信公の側近警備を担当した「長柄組」という武道に優れた強力な 家臣団です。 志 駄 屋 敷 越後時代からの直江家配下の家臣(寺泊城主)で、30万石に減封となってからは国家老を務めた志駄修理義秀の屋敷です。会津120万石の時は庄内酒田の亀が崎城代を務めていました。 平 林 屋 敷 直江兼続公の腹心で初代米沢奉行を務めた平林正恒の屋敷です。ちなみに 平林正恒は「武田勝頼の家臣」でしたが武田家の滅亡後に上杉家に仕官し 直江兼続公によって見出されました。 色 部 屋 敷 直江兼続公の信頼厚い色部長真の上屋敷です。城下の外北部には下屋敷を 置き揚北衆と千眼寺を配置して最上街道、最上川、屋代荘の防衛を担当しました。 寺 町 東寺町、北寺町、南は常安寺など四寺、西は越後街道沿いの各所、三の丸の 南端に林泉寺、北端に禅林寺を配置し、武器武具を常備させ有事の際の拠点 としました。 城下の外側 三の丸の外側には、東に「前田慶次と堂森善光寺」、西には直江兼続公の 下屋敷、南に原方衆と普門院、北には揚北衆と千眼寺というように二重、三重 に家臣団が配置されました。 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
全国に約450もの社があると言われる水の神「貴船神社」の一つが米沢市にもあります。直江兼続公によって創建された米沢の貴船神社は、京都の貴船神社総本社から分霊を受け、米沢の城下を流れる松川の上流部山中に建てられました。これは京都の総本社が街の中を流れる鴨川の上流部山中に立地していることにならったものです。上杉景勝公が入部された頃の米沢は、現在も米沢の街中を南から北に流れる松川(最上川)が度々氾濫を繰り返しており、米沢城の東側には居住はもちろんのこと耕作も出来ない土地が広がっていました。直江石堤の完成により松川の治水に成功した直江兼続公は、更なる安全を祈願して米沢の貴船神社を建立しています。尚、米沢の貴船神社は、ただ単に松川の上流部と言うことだけではなく、米沢城から見て辰巳の方角(南東)の吉方位線上に立地しています。また神社前の道はかつての福島街道で参勤交代や米沢の商人が通った道でした。
かつての福島街道沿に建つ貴船神社。右手が福島方面。(ここまで車両可) 米沢城から見て辰巳(南東)の方角の吉方位線上に建つ貴船神社。 貴船神社総本社 京都の貴船神社総本社の地図 米沢の貴船神社の地図 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 【大河ドラマ 八重の桜】 米沢にも暮らした八重 ![]() 福島県 八重をもっと知り隊 事務局 ![]() 会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
米沢の熊野神社は、伊達氏の時代にこの地に居住していた富豪が、紀州熊野権現から分霊を受け屋敷内に社を建てて祀ったのが始まりです。毎年8月には境内で大々的に盆踊りが催され、初日は氏子が揃って 上杉家御廟所 と 法音寺 に参拝することが慣例となっています。
境内で毎年8月に開催される盆踊り。 櫓の天辺には「毘」「龍」そして「天地人」ののぼりが立ちます。 上杉家御廟所、上杉謙信公廟に参拝。 法音寺、上杉家御霊所に参拝。 熊野神社の地図 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 【大河ドラマ 八重の桜】 米沢にも暮らした八重 ![]() 福島県 八重をもっと知り隊 事務局 ![]() 会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
どうして埋葬された【徳昌寺】から【林泉寺】に移されたのでしょう。
(少し長くなりますがお付き合い下さい。) 林泉寺と徳昌寺はともに越後を始とする曹洞宗の寺院です 林泉寺は上杉謙信公の祖父によって創建された寺で、上杉謙信公が7歳の時から厳しい修行を積まれ学問を学ばれた帰依寺でした。一方の徳昌寺は直江家代々の居城である与板にあった直江家の菩提寺でした。当時曹洞宗では末寺においてもその上下関係を厳しく定める寺院統制が行われていましたが、この2つの寺の間では定められていませんでした。 ではなぜ定められていなかったのでしょう 林泉寺は上杉家が越後を離れ会津、米沢と移る際に一時法灯を絶やしてしまいました。再建されたのは直江兼続公が亡くなる3年前の元和2年(1616年)ですから、15年~18年間その存在が無かったことになります。一方の徳昌寺は上杉家会津120万石移封に際し、豊臣秀吉から直々に直江兼続公が米沢30万石を拝領したことを受け、会津を経由せずに与板から真っ直ぐ米沢に移されていました。法灯が絶えた寺と上杉家執政の菩提寺ですから寺院統制など問題外の話だったのです。 話は変わりますが、直江兼続公の藩の人事は身内で固めたものでした 上杉家の執政として米沢藩の中枢にあった直江兼続公は、上杉景勝公、直江兼続公の生誕地である上田庄出身の「上田衆(五十騎衆)」と直江家の居城があった与板出身の「与板衆」の言わば身内で重臣を固めました。これは上杉謙信公直参の家臣団「国衆(侍組)」にとってこの上ない屈辱であり「反直江」の感情を募らせることになりました。 お船の方様が亡くなると「反直江」の家臣団の感情は一気に爆発 直江兼続公、上杉景勝公に続いてお船の方様が亡くなると「反直江派」は、藩の中枢から上田衆と与板衆の重臣達を追い出し権力を掌握します。更に30万石の小藩に転落したこと、直江状のせいで今も幕府の機嫌を害していることは全て直江兼続公の失政が招いた結果だとして、死後であっても厳しい処分を課すべきとの意見が大勢を占めるようになって行きました。 そして寺院統制の話と処分の話が結びつきます 「反直江派」は林泉寺を使って直江兼続公夫妻が埋葬された直江家菩提寺徳昌寺を攻撃し始めました。寺院統制を主張し林泉寺の指揮下に入ることを求めたのです。徳昌寺はこれに応じず藩に仲裁を訴え出ましたが、すでに藩の中枢に後ろ盾は無く、最後は林泉寺によって寺は打ち壊されてしまいました。敗れた徳昌寺は与板に逃げ帰り直江兼続公夫妻の墓はそのまま残されてしまいました。 直江兼続公の家臣団「与板衆」が動き始めます この結末に「与板衆」は直江兼続公夫妻の墓を城下の真福寺(しんぷくじ)移そうとしました。ところが「反直江派」はこれさえも良しとはしませんでした。直江兼続公夫妻の墓と霊牌を取り上げ林泉寺に移してしまったのです。その上で「与板衆」には林泉寺の檀家となるよう迫りました。しかし「与板衆」はこれに応じず、かと言って墓と霊牌を力で取り返すことも出来ず、今度は「与板衆」が屈辱を味わうことになってしまったのです。 与板衆のみで細々と行われた直江兼続公夫妻の法要 「与板衆」は直江兼続公の生母方の菩提寺である信濃泉衆の「東源寺」(とうげんじ)を招き米沢城下に寺を創建しました。そしてこの寺で直江兼続公夫妻の菩提を弔い細々と法要を執り行っていました。藩の重臣の法要は藩主催で執り行うのが慣例であったこの時代、直江兼続公夫妻にこの慣例が適用されることはなく林泉寺で法要が執り行われることは一切ありませんでした。 戒名に院殿号が付いたのは没後100年後、名誉は上杉鷹山公が回復されました お武家様の戒名には必ず院殿号が頭に付くものですが、当初直江兼続公の戒名にはそれがありませんでした。付いたのはなんとお亡くなりになられてから100年後でした。「英貔院殿達三全智居士」が直江兼続公の戒名です。またその約50年後、第九代米沢藩主となられた上杉鷹山公は、直江兼続公の名誉を回復し、直江家断絶後に途絶えていた法要を藩として執り行い、その功績の継承と発展にお力を注がれました。それ以降の歴代藩主もその心を受け継ぎ、直江兼続公の菩提を手厚く弔われました。 このような経過を辿り現在は林泉寺の境内にお二人並んで眠っておられる直江兼続公夫妻。果たしてどのように感じておられるのでしょう。お二人のお気持ちをお聞きすることは出来ませんが、徳昌寺様が与板に戻られる際一緒に与板に戻りたかったのではないでしょうか。夫婦となった与板の地で安らかにお眠りになられたかったのではないでしょうか。上杉時代館にはそう思えて仕方ありません。(合掌) 新潟県長岡市与板の徳昌寺様。与板城を居城とした直江家代々の菩提寺です。 直江兼続公夫妻が故郷与板の菩提寺徳昌寺様の境内に眠られることはありませんでした。 直江兼続公、正室お船の方様、長男景明様の御位牌ですが、このような経緯から米沢の林泉寺、米沢の東源寺、そして長岡市与板の徳昌寺と三組が現存しています。 かつて【徳昌寺】があった場所の地図 新潟県 長岡市 与板の【徳昌寺】の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
五穀稲荷神社は、米沢城三の丸の堀の土居上に建つ神社です。神社の位置は米沢城本丸から見て北東端にあることから鬼門の守り神として建てられたと考えられています。土居跡は現在児童公園の一部となっていますが、 西條天満神社 が建つ土居跡とともに現代の米沢に唯一遺る貴重な三の丸の堀の土居跡です。
五穀稲荷神社の地図 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 【大河ドラマ 八重の桜】 米沢にも暮らした八重 ![]() 福島県 八重をもっと知り隊 事務局 ![]() 会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
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取水口付近の地形は、東側を流れる松川から西に向かって高くなっていることから工事は困難を極め、堰に掛かる水圧で完成と破損の繰り返しでした。建設にあたった家臣の中には責任を感じ堰の前で切腹したという 切腹堰伝説 が伝わっています。(現在の堰から上流約200m)
現在の猿尾堰(さるおぜき)
付近に何か所も残る堰の跡。
猿尾堰の地図
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【八重の桜】 米沢にも暮らした八重
福島県 八重をもっと知り隊 事務局
会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博
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