米沢市内南部にある山形県立米沢興譲館高等学校の敷地西側の畑に、かつてこの場所が米沢藩主の葬儀場であったことを示す案内板が建っていますが、史跡として見れるものは何一つとして遺されていません。
塩ビ製の旗竿・・・竹竿にでも変えられないのでしょうか? 米沢市の「大壇葬場跡」と題した案内板。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 設置されている案内板ですが、米沢市設置の物以外は知識の押し売り的な表現が多くとても一般人には理解出来ない内容となっています。また「上杉家葬礼場跡」、「大壇葬場跡」、「米沢藩主葬礼場跡」と3つも名称表示があり更に見る者の混乱を招いています。案内板たる物は知識を有する者の自己満足ではなく、誰にでも理解して頂けるように分かりやすく作るべきではないのでしょうか。特に何も遺されていない場合は尚更案内板の重要度が高まる訳で、その表現の在り方次第で話題が生きたり死んだりすることは明らかです。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 【八重の桜】 米沢にも暮らした八重 ![]() 福島県 八重をもっと知り隊 事務局 ![]() 会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
慶長6年(1601年)、米沢城に入城された上杉景勝公は、直江兼続公に米沢城の本丸に上杉謙信公の遺骸を安置する祠堂の建設を命じました。これに合わせ避難所が設けられることになり造成されたのが上杉家御廟所の始まりです。上杉景勝公がお亡くなりになられた際に上杉家の御廟所となり、その後も歴代藩主の御廟所となりました。敷地中央奥の大きな廟は上杉謙信公廟で、明治9年に米沢城の本丸からご遺骸はこちらに移され、現在は歴代藩主とともに眠っておられます。
米沢城の北西部にある上杉家御廟所。始まりは避難所でした。 一部当時の空堀が遺されています。(正門の右手) 刀八毘沙門、懸かり乱れ龍、上杉軍を象徴する二つの旗印。 上杉謙信公の廟を中央に左側が偶数代、右側は奇数代の藩主の廟です。 御廟所の中央、一番奥に位置する上杉謙信公廟。 一段高く造られた上杉謙信公廟。 中央から左側は上杉景勝公から偶数代の藩主の廟。 右側は上杉定勝公から奇数代の藩主の廟です。 上杉謙信公のご遺骸は漆で塗り固められた甕(かめ)に納められ安置されています。上杉景勝公から八代宗房公までは火葬、九代重定公から十二代斉定公までは土葬です。 上杉家御廟所の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
上杉家の会津120万石移封、米沢30万石減封に伴い多くの寺が越後から米沢に移されていますが、照陽寺(しょうようじ)は越後国府中(新潟県上越市)から米沢に移された寺です。
米沢の照陽寺の境内には、上杉謙信公が急逝された際に起きた2人の養子(上杉景勝公と上杉景虎)による家督相続の争い「御館の乱」で上杉景虎(北条氏直の七男)側に加勢し亡くなった元関東管領上杉憲政のお墓があります。越後の照陽寺に埋葬されましたが、移封とともに米沢の照陽寺に改葬されました。 長尾景虎が上杉姓を名乗るきっかけは「上杉憲政」に由来しています。 照陽寺の地図 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 【大河ドラマ 八重の桜】 米沢にも暮らした八重 ![]() 福島県 八重をもっと知り隊 事務局 ![]() 会津若松市 ハンサムウーマン 八重と会津博 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
親の代の時は宿敵でも 子の代では親戚に
上杉と武田は五度も川中島で戦った敵同士でしたが、武田信玄公が元亀4年(1573年)に、その後上杉謙信公が天正6年(1578年)に病気で亡くなると、家督を継いだ武田勝頼公と上杉景勝公は織田信長に対抗するため「越甲同盟」を結びました。更に上杉景勝公は武田勝頼公の妹菊姫様(武田信玄公の四女)を正室として迎えこれにより上杉家と武田家は親戚となったのです。 武田信玄公の遺言 「何かあった場合は上杉を頼れ」 武田信玄公がお亡くなりになる際にそう遺言されたと言われています。武田勝頼公はまさにこの遺言を実行され上杉景勝公の支援を得ながら織田信長と戦いましたが、遂に力尽き「天目山の戦い」で自害、そして武田家は滅亡してしまいました。 姉の菊姫様を頼り 武田勝頼公の弟が上杉に 武田信清(武田信玄公の六男)は織田信長の追手をかわし、姉の菊姫様(武田信玄公の四女)が嫁いだ上杉家に逃げ込みました。上杉景勝公に3300石で召抱えられた武田信清は生涯家臣として仕え、寛永19年(1642年)83歳で亡くなりました。その後も米沢の武田家は幕末まで高家衆筆頭として上杉家に仕えています。 武田信玄公の六男、武田勝頼公の弟、武田信清の墓。(画像中央の五輪塔) 武田信清も兄武田勝頼公同様、父武田信玄公の遺言に従いました。 春日山林泉寺の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
元和5年(1619年)12月19日、直江兼続公は江戸の鱗(うろこ)屋敷でその生涯を閉じられました。享年60歳。遺骨は高野山清淨心院と与板から米沢に移された直江家の菩提寺【徳昌寺】に分骨埋葬されました。それから18年後の寛永14年(1637年)1月4日、同じく江戸の鱗屋敷で正室お船の方様が81歳でお亡くなりになりました。遺骨は兼続公が眠る米沢の【徳昌寺】に埋葬されました。お二人のお墓はその後【徳昌寺】から林泉寺に移されましたが、今もお二人寄り添い並んで眠っておられます。
春日山林泉寺の境内に並んで建つ直江兼続公夫妻の墓。 同じ境内に 同じ墓石で 同じ形に 造られたご夫妻の墓。 男尊女卑の時代には考えられない大変珍しいことです。 墓の覆いの前面には直江家の家紋があしらわれています。中に五輪塔の墓石があります。 ![]() ご命日の墓参。降雪が早い年は雪に覆われてしまいます。 春日山林泉寺の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
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桂岩院様が第三代上杉定勝公を出産されたのは慶長9年5月のことでした。その僅か3ヶ月後、桂岩院様は米沢城内で急死されます。家臣達の間ではこの年の2月に亡くなられた正室菊姫様(大儀院)の祟りだとの噂が飛び交ったと伝えられています。桂岩院様のご遺骸は正室菊姫様(大儀院)の墓碑が建つ林泉寺の上杉家墓所に埋葬されましたが、噂が影響したのでしょうか、お墓はその後極楽寺へと改葬されました。以後これが慣例となり極楽寺は上杉家側室の菩提寺となりました。
上杉定勝公を出産された後3ヶ月でお亡くなりになられた桂岩院様。さぞかし無念だったことと思います。(合掌)
画像中央のお墓が桂岩院様のお墓です。
上杉定勝公の養育は、直江兼続公正室お船の方様がされました。
上杉家側室の菩提寺 極楽寺の地図
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