最近よく耳にする数字は?と聞かれたら皆さんは何とお答えになりますか。きっと多くの方が5月22日に開業した東京スカイツリーの高さ「634m」とお答えになると思います。今日は直江兼続公にまつわる「634m」のお話をご紹介します。
上杉景勝公と直江兼続公の生誕の地、越後国上田庄坂戸城下(新潟県南魚沼市(旧六日町))の本城は、天然の地形を利用して築城された山城でした。上杉景勝公の父長尾政景公(因みに母は仙桃院(上杉謙信公の実姉)様です)が城主を務め、直江兼続公の実父樋口惣右衛門兼豊はこの城で薪炭(しんたん)奉行を務めていました。幼少のお二人が出会われたこのお城は、高さ634mの坂戸山に築かれ「坂戸城」と呼ばれていました。 坂戸城があった高さ634mの坂戸山。 南魚沼市発行の観光パンフレットから引用。 ![]() 坂戸山登山口に立つ南魚沼市の案内表示板。 新潟県 南魚沼市公式ウェブサイト 山形県米沢市の歴史親善友好都市です。 六日町観光協会 坂戸山トレッキング 新潟県南魚沼市 坂戸山の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
春日四柱大神を祭神とする春日神社は、上杉謙信公が奈良の春日大社から分霊し創建した社です。越後春日山城から会津、米沢と上杉家とともに移され現在に至っています。米沢では春日山林泉寺の境内や城下を何度も移動し、更には大正8年(1919年)の米沢大火で焼失するなど数奇な運命を辿って来ています。昭和56年(1981年)に現在の社が建立されましたが、それまでは松岬(まつがさき)神社に合祀されていました。
昭和56年(1981年)にようやく現在の場所に落ち着いた春日神社。 新潟県上越市の春日山神社。米沢の春日神社から分霊し祀られています。 春日神社の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
慶長6年(1601年)米沢城に入城した上杉景勝公は、直江兼続に上杉謙信公祠堂(御堂)の創建を命じました。
天正6年(1578年)3月13日、越後春日山城で亡くなられた上杉謙信公のご遺骸は、甲冑姿で甕に納められ周りを漆でしっかりと固められていました。会津移封により越後の地を離れ、その後米沢減封により米沢へと移されていました。 上杉謙信公の存在はその死後も家臣団の精神的な支えであるとともに、減封による苦悩下において家臣団の心を一つにする象徴でした。 米沢城本丸跡の南東部。高台になっているのが分かります。 明治9年までこの高台に上杉謙信公のご遺骸が安置されていました。 現在は歴代藩主が眠る上杉家御廟所に安置されています。 祠堂(御堂)の建物は長命寺の本堂として現存しています。 上杉謙信公祠堂跡の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
米沢城は、鎌倉時代(1238年頃)に長井時広によって築城されたと伝わっています。長井氏の時代は松岬城(まつがさきじょう)と呼ばれており、その後居城とした伊達氏の時代から米沢城という呼び方に変わりました。城の正面は現在の東門とは違い北門で、伊達氏の後の蒲生氏まで北門が正面とされていました。その名残りで今でも北門から真っ直ぐ北に延びる通りに面した町を「表町」と呼ぶことがあります。慶長6年(1601年)上杉景勝公の米沢城入城に際し、直江兼続によって正面は北門から東門に改修されました。
かつて米沢城の正面だった北門。 明治6年(1873年)までは三階建の櫓(御三階)もありました。 米沢城跡 北門の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
米沢城跡正面(東門)に堀をまたいで架けられている橋が「舞鶴橋」です。上杉氏の時代のものではなく、明治19年(1886年)に架けられた石造りの橋で、国の登録文化財に指定されています。
長い冬の後の春を喜ぶように桜が満開となった米沢城跡と舞鶴橋。 夏は舞鶴橋の脇を打ち上げ場所として「水上花火大会」が催されます。 「毘」と「龍」の旗がたなびく舞鶴橋。 橋の下の堀には鯉が、周囲には鳩が沢山います。どちらも餌付けを楽しめます。 米沢城跡 舞鶴橋の地図 ![]() 上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館) |
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参照ニュース記事→ 山形新聞 Yamagata News Online
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