上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

■ 米沢の史跡
米沢城跡北門の西側の堀には蓮が植えられています。米沢では例年8月上旬頃からちらほらと花が咲き始め、お盆の頃には満開を迎えます。ひと昔前には土壌や水質の問題で全滅してしまった時期もありましたが、関係者の方々のご努力が実り見事に復活しました。近年はその面積も広がり益々綺麗に咲き誇っています。


朝もやが晴れて朝日が差し込み始めた頃。




米沢城跡 本丸の堀 蓮の花の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
かつて米沢城には本丸の他に二の丸、三の丸まで堀がありましたが、明治6年(1873年)に城が取り壊されると二の丸、三の丸の堀は埋められてしまいました。現在は本丸の堀とほんの僅か二の丸の堀が残るのみとなっています。
城が取り壊された後は市民に開放され、昭和40年代までは児童遊園地もあり、堀では魚釣り(現在は禁止)やザリガニ釣り、また近くには中学校と高校が隣接していたため大変賑やかな一角でしたが、今ではその面影も見られずひっそりとした雰囲気に包まれることが多くなってしまいました。


同じ位置からの冬景色。


厳しかった冬の後の桜の季節が一番です。


まさに明鏡止水。映り込む満開の桜がとても綺麗です。


米沢城跡 本丸の堀の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢城跡本丸の南側に堀をまたいで架けられている赤い橋が「菱門橋」です。かつては上杉家の藩主以外渡ることが許されていなかったという由緒ある橋です。本丸からこの橋を渡り二の丸に出ると、この先には上杉鷹山公が隠居された餐霞館(さんかさん)がありました。米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」も橋の上からこの景色をご覧になられたかと思うとつい歴史ロマンに引き込まれてしまいます。菱門橋は別名「たいこ橋」とも呼ばれています。

春の桜と「菱門橋」。上杉神社周辺は桜の名所となっています。


このアングル、パンフレットや情報誌でご覧になられた方も多いと思います。


初冬の冬枯れの中、「菱門橋」の綺麗な赤が景色に彩りを添えています。


今は誰でも渡ることが出来る「菱門橋」は「秘し門」から名付けられたました。


米沢城跡 菱門橋の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢城跡正面(東門)に堀をまたいで架けられている橋が「舞鶴橋」です。上杉氏の時代のものではなく、明治19年(1886年)に架けられた石造りの橋で、国の登録文化財に指定されています。

長い冬の後の春を喜ぶように桜が満開となった米沢城跡と舞鶴橋。


夏は舞鶴橋の脇を打ち上げ場所として「水上花火大会」が催されます。


「毘」と「龍」の旗がたなびく舞鶴橋。


橋の下の堀には鯉が、周囲には鳩が沢山います。どちらも餌付けを楽しめます。


米沢城跡 舞鶴橋の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢城は、鎌倉時代(1238年頃)に長井時広によって築城されたと伝わっています。長井氏の時代は松岬城(まつがさきじょう)と呼ばれており、その後居城とした伊達氏の時代から米沢城という呼び方に変わりました。城の正面は現在の東門とは違い北門で、伊達氏の後の蒲生氏まで北門が正面とされていました。その名残りで今でも北門から真っ直ぐ北に延びる通りに面した町を「表町」と呼ぶことがあります。慶長6年(1601年)上杉景勝公の米沢城入城に際し、直江兼続によって正面は北門から東門に改修されました。

かつて米沢城の正面だった北門。


明治6年(1873年)までは三階建の櫓(御三階)もありました。


米沢城跡 北門の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
慶長6年(1601年)米沢城に入城した上杉景勝公は、直江兼続に上杉謙信公祠堂(御堂)の創建を命じました。
天正6年(1578年)3月13日、越後春日山城で亡くなられた上杉謙信公のご遺骸は、甲冑姿で甕に納められ周りを漆でしっかりと固められていました。会津移封により越後の地を離れ、その後米沢減封により米沢へと移されていました。
上杉謙信公の存在はその死後も家臣団の精神的な支えであるとともに、減封による苦悩下において家臣団の心を一つにする象徴でした。

米沢城本丸跡の南東部。高台になっているのが分かります。


明治9年までこの高台に上杉謙信公のご遺骸が安置されていました。


現在は歴代藩主が眠る上杉家御廟所に安置されています。


祠堂(御堂)の建物は長命寺の本堂として現存しています。


上杉謙信公祠堂跡の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)