上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

■ 米沢の史跡
「風の神」と書かれていれば誰しもお天気の風の神様を連想するところですが、米沢にある「風の神」はなんと風邪(感冒)の神様なのです。元々は米沢藩士の屋敷神として祀られていただけでしたが、周辺住民の話題となりお札や講、神輿に社まで作って盛大に祀られることになりました。昭和25年に山形地方検察庁米沢支部が屋敷跡に建てられましたが、「風の神」だけは特別に残されることになり、現在も検察庁の門の内側にその社が建っています。

官地(検察庁)に建つ米沢の「風(風邪)の神」。検察庁のみなさん風邪ひかないのでしょうか?


風(風邪)の神の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
直江兼続公の「愛」の前立て(金小札浅葱糸威二枚胴具足 直江兼続召料「兜」- 上杉神社 所蔵)の由来については、残念ながら史料(古文書)は何も残されておらず詳しいことは何も分かっておりません。諸説沢山ありますがこの件に関しては全てが憶測で語られていることにご留意下さい。

その説の一つに「愛染明王説」があります。直江兼続の主君上杉景勝公の兜には、大日如来の日輪に「愛染明王」(あいぜんみょうおう)の四文字が刻まれている前立てが実在しています。このことに合わせて直江兼続公は米沢城から見て辰巳(南東)の吉方角上に、大日如来と愛染明王の社を二つ並べて建てています。同一方位線上の米沢城側(内側)に大日如来、外側に愛染明王という建て方から見える上下関係は明らかで、兜の前立てについてもこの関係を共有させたのではないかと考えられています。

現在の社は大正8年(1919年)の米沢大火後に再建された建物です。


大火の中、氏子さんの一人が家財ではなく愛染明王を背負って避難され難を
逃れました。


愛染明王のご開帳は7月1日の例大祭日と元旦の年間2日間のみです。


拝観ではなくお参りするという気持ちならこの2日間に限り見ることが出来ます。


米沢直江会 直江兼続公 山車人形。


愛染明王については、地図による位置情報表示を自粛致します。



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
全国に約900もの社があると言われる愛宕神社。その一つが米沢市にもあります。京都市右京区にある総本社のように米沢の愛宕神社も山の頂上に建てられており、歴史は古く上杉家入部以前の蒲生氏、伊達氏、長井氏の時代までさかのぼります。8月1日の例大祭の日は早朝に市民登山が行われ、夕方は「愛宕の火祭り」が開催されています。登山口にあたる「地蔵院」には愛宕羽山両神社の社もあります。

麓の地蔵院にある愛宕羽山両神社。


地蔵院から2.2km先の愛宕山山頂を目指します。


愛宕神社が建つ標高555m、愛宕山山頂に到着。


8月1日は早朝から登山者で賑わう愛宕神社。


山頂から望む早朝の米沢南西部〜南東部。


夕方から開催される「愛宕の火祭り」


米沢城跡の近くから神輿と松明行列が地蔵院を目指します。


愛宕神社には上杉鷹山公も「雨乞い」のため参拝されました。


愛宕山の麓 地蔵院の地図

米沢の愛宕神社の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
直江家の菩提寺「徳昌寺」にあった直江兼続公夫妻のお墓と霊牌を、春日山林泉寺に奪われた直江兼続公の家臣団「与板衆」は、元初代米沢奉行平林正恒(元武田勝頼公の家臣)の支援を受け、直江兼続公の生母方である信濃泉衆の菩提寺「東源寺」(とうげんじ)を米沢に招き揃って檀家となりました。そしてこの「東源寺」で直江兼続公夫妻と長男景明様の菩提を弔ったのです。今も直江兼続公の命日には法要が執り行われています。境内は平林家屋敷跡で平林正恒も東源寺に眠っています。

今も直江兼続公の命日には法要が執り行われる「東源寺」。


直江兼続公ご夫妻と長男景明様の御位牌。


東源寺様は拝観を行っておりません。どうぞご命日にお参り下さい。

東源寺の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
上杉家の120万石移封、30万石減封により多くの寺院が越後から会津、米沢と移されましたが、越後国上田庄上山あった「関興庵」(かんこうあん)もその寺の一つでした。米沢に入った「関興庵」は、直江兼続公により米沢城の守護と安泰を祈念し鬼門にあたる城下北東部に再建されています。現在南魚沼市にある「関興寺」(かんこうじ)は、米沢の「関興庵」から住職の一人が後に越後に戻り再興したお寺です。「関興庵」は直江兼続公の生家樋口家の菩提寺です。

越後国上田庄上山(南魚沼市)から米沢に移された「関興庵」。


直江兼続公の生家樋口家の菩提寺です。


後に越後国上田庄上野(南魚沼市)に再興された「関興寺」。


樋口家の菩提寺 関興庵の地図

新潟県南魚沼市 関興寺の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
【米沢の史跡】 直江兼続公が造った防衛機能「寺町」に掲載しました
「御城下絵図」に書き込まれている家臣団と寺について記述します。

国宝上杉文書一八七四号 「御城下絵図」 米沢市上杉博物館所蔵。
許可を得て掲載しています。

※絵図上の文字は上杉時代館が書き入れたものです。

侍 組
上杉家最上級家臣団で、上杉一族を中心に高家衆、壱番衆、弐番衆、参番衆、
四番衆、御年寄衆から成る越後以来の国衆家臣団と武田一族から成る家臣
団です。
三 手 組
上杉謙信公の旗本の馬廻組、上杉景勝公の旗本の五十騎組、直江兼続公の
旗本の与板衆から成る家臣団です。
御 徒 組
上杉定勝公(上杉景勝公の子、慶長9年1604年5月誕生)の小姓と直江兼続公、直江兼続公正室お船の方様の小姓を務める旗本から成る家臣団です。
直 峯 衆
直江兼続公の生家である樋口家の家臣団です。
御 守 組
上杉謙信公の側近警備を担当した「長柄組」という武道に優れた強力な
家臣団です。
志 駄 屋 敷
越後時代からの直江家配下の家臣(寺泊城主)で、30万石に減封となってからは国家老を務めた志駄修理義秀の屋敷です。会津120万石の時は庄内酒田の亀が崎城代を務めていました。
平 林 屋 敷
直江兼続公の腹心で初代米沢奉行を務めた平林正恒の屋敷です。ちなみに
平林正恒は「武田勝頼の家臣」でしたが武田家の滅亡後に上杉家に仕官し
直江兼続公によって見出されました。
色 部 屋 敷
直江兼続公の信頼厚い色部長真の上屋敷です。城下の外北部には下屋敷を
置き揚北衆と千眼寺を配置して最上街道、最上川、屋代荘の防衛を担当しました。
寺 町
東寺町、北寺町、南は常安寺など四寺、西は越後街道沿いの各所、三の丸の
南端に林泉寺、北端に禅林寺を配置し、武器武具を常備させ有事の際の拠点
としました。
城下の外側
三の丸の外側には、東に「前田慶次と堂森善光寺」、西には直江兼続公の
下屋敷、南に原方衆と普門院、北には揚北衆と千眼寺というように二重、三重
に家臣団が配置されました。



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)