1 日 時:平成26年12月21日(土) 10:00~12:00
2 場 所:河井公民館
3 講 師:鈴木富治氏(長井市河井在住、元トロッコ道作業従事者:92歳)
4 参加者:とよだふる里振興会地域開発部員6名
(久保部長,本間副部長,鈴木事務局長,金子,佐藤,塚田)
5 その他:講師の都合で多数の聴講者を相手にする場合は引き受けないことが条件
6 内 容
【トロッコ道とは?】
① 建設省(現国土交通省)東北地方建設局山形工事事務所が昭和59年3月に発行した「50年のあゆみ」によると、「松川(注:昭和40年4月1日から最上川)は愛宕山と河井山・今泉山の間を流れており、川幅が50~70メートルに狭められた約2,000メートルの区間が『河井山狭窄部』と称されている。その狭窄部がくびれた漏斗状の形状であったことから、上流部はわずかの出水にも湛水して水位の昇降が極めて著しい。(中略)このため、昭和11年から松川左岸河井山掘鑿工事に着手し、戦時中のため中断していたが、昭和25年から河井山掘削工事が再開され、昭和36年までの12年間にわたり硬岩掘削の難工事を実施したのである。」と記載されている。
② 最上川上流域における治水事業のきっかけとなったのは、大正2年(1913)に発生した台風による集中豪雨のため県下全域が浸水する大災害が発生したことによる。この災害をきっかけに大正末期から昭和初期にかけて河川調査が行われ、昭和8年(1933)から内務省(現国土交通省)直轄の本格改修工事が始まったものである。
③ この工事に伴う河井山の掘削及び川底から出る砂利や岩石などの運搬に使われていた人力及びディーゼル機関車によるトコッロの線路跡860メートルの区間を、国土交通省山形河川国道事務所長井出張所が平成21年10月から平成22年7月までの期間において遊歩道として整備したもので、「トロッコ道」と称している。
【鈴木富治さんにお聴きすることになった経緯】
① とよだふる里振興会は、平成25年度から長井まちづくり基金の助成を受け「長井市の南玄関:豊田の魅力アップ-豊田地区観光交流・受入整備事業-」に取り組み、2年目となる平成26年度事業として、河井山古墳群とトロッコ道に関する観光案内板の整備とともに地域資源学習会を開催(所管:地域開発部)することにした。
② その学習会として、河井山狭窄部の掘削工事に従事された大正11年(1922)生まれの鈴木富治さんは、河井在住の92歳ながら目も耳も良好な状態を保ち、また記憶も確かなものがあることから、当時の状況を伺うことにした。
③ なお、当時の貴重なお話であることから、多くの地区民に参加していただくことを鈴木さんに要請したところ、不特定多数の聴講者を相手にする場合は勘弁してほしいとのことから、地域開発部員を対象とすることで了承いただいたところである。
【鈴木富治さんが従事した作業風景】
① 鈴木さんがトロッコ道の作業に従事したのは、昭和11年(1936)からで、当時15歳であった。募集の年齢要件が20歳以上であったことから、年齢詐称で働いていたとのこと。
② 掘削に関する作業内容は大きく3つに分かれ、一つは河井山の上部から掘削する通称「段掘り」と呼ばれるもので、ハンマーとノミ、つるはしなどで土や岩を掘る業務、2つはその土や岩をトロッコに積み、線路の上を土砂捨場まで運搬する業務、3つはトロッコで運ばれた土や岩を土砂捨場でならす業務に分かれていた。
③ 鈴木さんが従事した作業は、この3つ以外のトロッコ線路(軌道)の保線要員であったとのこと。
④ 勤務時間は朝8時から夕方5時までで、出勤時は「でずら」と呼ばれる出勤管理簿に押印するシステムになっていた。
⑤ でずらの押印場所は、白川にワイヤーで架かっていた吊り橋(足場2枚:60㎝程度)を渡り、現在の泉地内羽黒神社付近に建設されていた「最上川上流改修事務所(昭和18年度から最上川上流工事事務所、昭和29年度から山形工事事務所)長井工場(昭和24年度から長井主張所)」の出先機関であった。
⑥ 給料は原則毎月10日に支給されていた。希望により毎日換金できることも可能であったが、西大塚の仲沖酒造に出向くことが必要であった。支給場所は長井工場。
⑦ 現在の休憩である小休止は「まめ」と呼ばれ、1日2回与えられていた。
⑧ 土砂を運搬するトロッコは10台程度あり、2人ペアで積み込み、ブレーキが無いものであった。
作業風景:写真写真説明:真冬の土運搬の状況(長井工場)。人力による積み込み、トロッコによる人力運搬。人力による積み込みは、早い人で0.6?(スコップ約80杯分)を、2人で5分間で行った。
【写真:昭和58年12月10日建設省東北地方建設局山形工事事務所発行「治水の譜-最上川河川事業50年の足跡-」から】
⑨ トロッコの線路は幅約1m、台車に木枠(1.5m×1m×1m)を載せ、10台以上連結して運搬した。土砂を捨てた後は、トロッコを2人で押して取り場まで移動した。
⑩ 線路の長さは5メートルであった。
⑪ トロッコの線路に敷く枕木は栗の木、1メートル当たり4~6キログラム程度であった。
⑫ 戦後に工事が再開された以降、トロッコの動力が人力から小型のディーゼル機関車になった。
⑬ 掘削は、手作業の場合はハンマーと長さ30cm程度のノミを使用するとともに、削岩機を使用していた。
⑭ 土砂捨場の要員は、1班当たり20人程度で3つのグループに分かれていた。
⑮ 現場の指揮官は「親方」と呼ばれシャッポを被っていた。
⑯ 掘削土砂の中から、埴輪と思われる手足付きの陶製人形が多数産出したが、松川に埋められた。
⑰ 冬季間の服装は、菅笠をかぶり、みのを羽織り、藁で編んだ深靴を履き、布の軍手を使用したとのこと。勿論吹雪の日は休みであった。
⑱ 昭和30年代に、工事の休憩中の土砂崩れにより作業員1名の死亡事故が発生した。
⑲ 対岸でも掘削工事が行われ、西松建設が元請で後藤組が下請けであった。
⑳ 掘削場を「取り場」、捨てる場所を「捨て場」と呼んでいた。
土砂捨場風景:写真
河井山掘削工事土砂捨場の状況。施工場所:西置賜郡豊田村。【昭和11年12月撮影】
この記事へのコメントはこちら