草木塔の郷 DENTAKUJI なあまず日記

草木塔の郷 DENTAKUJI なあまず日記
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草木塔はいよいよ飯豊町中津川に初めて現れる。
田沢から小屋集落へは、国道121号を戸長里集落から県道を玉庭方面に向かい、上和合からもう集落がなくなった温井を通り権平峠を越えると、距離的にはずいぶん近い位置にある。
合併前の中津川は、昭和33年に飯豊町に合併する前は、田沢が所属する三沢村と同じ南置賜郡だったのだ。
山林業や生活圏という点では、道路事情を考えてもこちらに近かったことは容易に想像できる。


峠を小屋側に下る途中、木々の間から小屋集落の奥の方が望める。
大学生時代(かれこれ30年以上昔^^;)、50ccのバイクで峠を越えた時、ここから同じ風景を見て、あまりの美しい山里の風景に息をのんだ。

今も美しいのだが、比べると家がなくなり、田んぼが放置されて荒れてしまっているのがわかる。
人が住んでいてこその山里なんだと、改めて感じる。


さて、小屋集落に入り旧小学校舎から道を戻っていくと、栂峯山大神の鳥居が建っている場所の一角に石塔群がある。
その中にある。
碑面には「草木塔」と「文政十三年 三月十七日」と刻まれている。

川西町玉庭高野沢の草木塔からちょうど一年後の建立ということになる。
文字や字の配りがよく似ている。
どちら側を経てこの地に建てられることになったものか。


鳥居は標高約1500mの栂峯を向いて立っている。
ほぼ山頂近くに神社が祀ってあり、そちらを向いてここは遥拝する場所なのだ。
じつは、私もまだ上ったことがない。

ここから見て、栂峯のほぼ裏側が大荒沢不動尊なのである。
栂峯神社は、毎年9月8日がお祭りで、地域の方々で現在も道刈りをなさっているとのこと。
大荒沢不動尊も9月7・8日がお祭りで、峯を挟んで両側でお祭りをしていることになるのだ。

玉庭の高野沢から菅沼峠を越えて小屋へ繋がるという道路の関係と、山一つ隔てて田沢と人がつながっていたという関係性から、小屋に飯豊町最初の草木塔が建ったという意義が見出せそうな気がするのだけれどなぁ。
何か記録が出てこないものだろうか。



栂峯を眺めるように建っているこの草木塔は、1990年に開催された大阪花博(国際花とみどりの博覧会)の会場に展示された。
その経緯はよくわからぬけれど、高さ70センチ余りの小ぶりな草木塔は、多くの人に「草木塔」の存在を知られるきっかけになったようである。


また玉庭に戻って、草木塔。
玉庭から中津川に抜ける菅沼峠の登り口の現在の街道沿いから少し林に入ったところに建っている。
ここは、旧街道端ということであった。

碑面は、「草木塔」文政十二年(1829) 三月十七日。
60僂曚匹亮然石の、素朴な石塔である。

その脇にも、石塔が立っている。



「飯豊山」「湯殿山」というもので、「飯豊山」の石塔は俵石という、このあたりから出る面白い形状の石という説明であった。

ここから、飯豊町中津川方面へ草木塔が建つ道筋になるのであろうか。
建立者や理由はよく解っていないという。
草木塔を歩くを、再開。
ちなみに、画像は昨年のもの^^;

南陽市からまた米沢市田沢地区に戻る。
年代順で追っていくとこうなってしまう。
まぁ、これも楽しみというものですね。

米沢市の田沢地区にある草木塔では、最も米沢市内に近いところに建っています。
下の町という集落の米沢市内寄り、国道121号線沿いに墓地があり、その道路沿い立っている石塔の中の一つ。

碑面には「草木塔」と刻まれており、文政九年(1826)八月十五日
資料には、「町方施主」とあるそうですが、確認できない。
田沢の直前に建てられたものは「草木塔」「草木供養塔」の両方あり、どういう影響を受けて分かれているものだろうか?
自然石を用いているのは、従来の通り。

道路の拡幅によって、何度か移動していると、田沢寺の住職と、研究者の方から聞いているが、おおよそこのあたりに立っていたものということだ。

移動する前には、見えている石の下に一尺ほどの台石があったはずとのこと。
確認してみなければわからないが、おそらく土に埋まって(沈んで?)いるのではないだろうか。
いよいよ南陽市に草木供養塔を訪ねる。

宮内から小滝街道を北上し南陽市立荻小学校に辿り着く。現在のバイパスから荻小学校に向かい、正門のすぐ右脇にしっかりと建っている。
これはおそらく、もともとの建立地は別だったんだろうと推測できる。

ほぼ1mぐらいのゴツッとした自然石なのだが、どうもてっぺんが真横に割れてしまっているようだ。
ちょうど、草かんむりの横一本のあたりから上が無い。

表面には、「草木供養塔」ち刻まれており、その右側に文政七甲申年、左側には八月吉祥日、続けて 五左衛門とある。
文政七年は西暦1824年で、口田沢の二基から一年後の建立だ。
現在の南陽市域で初めて建てられたものになる。
そして、建立者が個人の名前で単独で掘られているのもここが最初なのではなかろうか。



草木供養塔の脇に、「南無阿弥陀佛」と刻まれた石塔が並んで建てられている。
これは…、どうなんだろう?!これは、やはり、草木供養塔とは別に違うところにあったのではないのかなぁ。

地元の、石塔などを研究されている方にお話しを聞いてみなければならない。元の場所、草木供養塔に関して伝えられていることなど、ここに伝播していった経緯も手がかりがあるだろう。


南陽市の有形民俗文化財に指定されているという看板が立っている。
市の教育委員会にも資料があるだろうから、手がかりがつかめるかも。

それにしても、ここは小学校の前で手入れもなされており、子どもや多くの人たちの目に触れる場所にあっていいなぁ。



この地域も、山の仕事と関わってきた地域だろうと、周囲の様子から察することができる。小滝街道をさらに北上すると、水林もあるし、そこらへんとの関わりはなにかあるのだろうか。

荻小学校かのすぐ裏の道へ入ってゆき、「置賜大橋」という山の中の橋に興味をひかれ、林道をドンドンと車で走って行ったら、たいへんな山の中まで行ってしまった。
林道を通って、漆山や長井の五十川までつながる。

草木供養塔と山の仕事の関わりという点で、いずれ調べてみたいものだ。



米沢市大字神原地内の、勝軍地蔵尊のお堂の境内に建っている。
様々な石塔や祠が寄り集まっている場所で、その石塔群の中にそれほど目立たない状態になっている。

この画像は鮮明でわかりにくいともので、もうしわけない。
「草木供養塔」を中心に、向かって右側に「文政六未丙」、左側に「八月八日  神原」と刻まれている。
実際に石塔を観ると、しっかりとした文字だ。

文政八年は1823年。
この前に訪ねた下中原の草木塔と同じ年であり、しかも八月で、こちらは八日と日にちも入っている。

下中原と神原の石塔は、2kmも離れていない場所にある。
建立日が下中原の方は書いていないので、どちらが先に建ったものなのかはわからない。

しかし、同じ年月に建ったにもかかわらず、神原の方は「供養」の字が入っている。
建立の経過をみれば、神原の方が早いと考えるのが自然ではなかろうか。
石の大きさもほぼ同じで、80僂阿蕕ぁ
文字の書体もなんと似ているような気がする。

神原は、現在もこの地は大字神原である。

建立時はおそらく神原村であったろう。
これは、建立者とみるのが普通だろう。



このお地蔵さまは、神原地域の鎮守様になっており、4月23・24日の春祭りと7月23日・24日の夏祭りを行っている。
境内には、稲荷大明神の祠や、湯殿山や水神塔、庚申塔、羅漢像群、大日尊などの様々な石塔、そして、伊藤氏生碑というこの地域の傑出した人物を讃える石碑もあり、一つ一つ調査をして修復できないものかと思うのだが。


お堂前を旧国道121号が走り、その下は小樽川の清流を望み、向かい側の集落、彼方には大荒沢などの山並みが広がる、景色の良い場所に建っている。
新しい国道121号がお堂の後ろ側に切り開かれ、今は相当な交通量がある。
その新旧国道の分岐点のように見える。

神原の草木塔は、草木塔の伝播の上でも分岐点にあるのではなかろうか、そんな想像もしているところだ。  
80僂曚匹両ぶりな石塔にしっかりした書体で「草木塔」と刻んである。
前面にはこれだけ。
向かって右側面には、文政六年八月とある(西暦1823年)。

これまで建てらている塔は、大明神の物を除くと全て「草木供養塔」と刻まれているので、初めて「草木塔」と刻まれたものだろうか。
この碑面の文字の書体が、大台原とよく似ているような気がする。

そして、供養の文字がないせいか、なんというか宗教的な感じがしないように思うのは私だけだろうか?!


この場所は、口田沢中原から川西町大舟に抜ける県道川西線の螻尾峠の入口付近で、山根と称されている地域だ。

草木塔の脇には「観世音」という石塔、少し離れて馬頭観音の石塔も建っている。
手前には、下中原・上中原の両地区で祀っている地蔵様のお堂がある。


お堂の向こう側、山中に向かって道型が残っており、これはもともとの螻尾峠の旧道らしい。
今の道路は、この上を走っており、狭い山道だが車が通ることができる。

大舟に峠を越えると、旧須貝家があり、ここは江戸時代に隠れキリシタンをかくまっていたと言われており、米沢で殉教した山浦玄蕃がここに隠れていたとか。

田沢地区の草木供養塔(草木塔)は、比較的川に近いところにあるのだが、ここは川から離れている。
また、田沢の街道から離れているため、訪れた方が最も見つけにくい草木塔でもあるようだ。
米沢市立三沢東部小学校グラウンドの南側、道端にしっかり管理されているように建っている。

おおよそ1mながら、厚みのある大きな自然石。
碑面には、「草木供養塔」とたいへんはっきり力強い文字が刻まれている。
文政六年二月、三簗沢村。
文政六年は西暦1823年。三簗沢とは…、東沢と西沢とどこであろうか?

この草木供養塔の後面と側面に、建立の趣旨と建立の世話人の名前が書いてあること。
私ははっきり読み取ることができないが、既に三沢地区で調査されているはず。
三沢地区では、早くから草木塔に関心を持っている人がいらっしゃって、研究や整備が進んでいる。
旧三沢公民館にも新しい草木塔を建て、環境を守る地区、という宣言を二十数年前に行っているはずだ。



この草木供養塔は、米沢市の有形指定文化財になっている。
建立の趣旨が書き記されている初めて塔、そういう意味で大変重要だ。


小学校の正門の通りにあるから、きっといつも多くの人の目に触れているだろう。
道路の向かい側には、老人介護施設や保健施設などがある。
ここは、なかなかいい場所である。

米沢市入田沢地内の大荒沢不動尊のお堂に向かう参道の途中、道下に建っている、10番目に古い塔だ。
1m足らずの高さの自然石に、「草木供養塔」 文政元年八月と刻まれているのが読める。
西暦1818年建立である。

画像では見えないが、左側に下に「村中」とあり、おそらく建立者と思われ、それが入田沢村であったのか、また別な意味であったのかはよくわからない。



参道である林道から沢の方にあり、新しい石宮二つと並んでおり、後ろには「道祖神」と刻まれた新しい石板がある。
その脇には二又の杉の大木があり、かたわらにはもともとある「道陸神」(どうろくじん)が石が崩れたかっこうで残っている。
ここの地主の方が、「道祖神」として新たに建てられたもの。



じつは、こちらが元の不動尊の参道で、昭和三十年代の中ごろに、林道ができるまではこちらを通ってお堂や山へ歩いていたそうだ。
残念ながら私には記憶がない。

その元参道わきには、田んぼを作るために引いてきた堰のあとが残っており、往時の名残をわずかにとどめていると想像している。





9番目に古い草木塔は、川西町に戻る。
川西町で2番目に古い。
そして、米沢市簗沢糸畔の草木供羪塔と同年の、1816年8(文化13年)の8月吉祥日と塔の左側面に刻まれている。
ちなみに、糸畔は同年4月7日である。

場所は、大舟から玉庭に超える新蔵峠の旧道沿いと、地元の方からお聞きした。
現在の新蔵峠は、東沢小学校の脇を通るが、旧道はそこから南へ1kmぐらい田沢側である。
昔の道型は私たちには解らない。
戦前生まれの東沢の方に「玉庭中学校の東沢分校に通っていて、一週間に一度は必ずこの新蔵峠の旧道を本校に通ったものだ」とお聞きした。
地元の方にお聞きすれば、昔の道はまだ解ると思われる



この草木供養塔も元の場所から移動したものと思われる。
庚申塔が5〜6基、湯殿山塔などなど石塔が集まってきている。
耕地整理で移動したということなので、元の位置を知る人が地元にいらっしゃるだろう。

建立の由縁はわからない。

古いほうから数えて、初めて凝灰岩でできた石塔で、しかも墓石型の塔になっている。
凝灰岩の出所は、専門家に分析してもらえば、ある程度解るのではなかろうか。

掘られている文字が非常にしっかりした力強い字だ。
玉庭のとは全く異なっている。


道端からはお地蔵さんのお堂だろうか、田舎ののどかなたたずまいがある。

見えはしないが、ちょうどこのお堂の上方に草木供養塔は建っている。
糸畔地区は現在の三沢地区の、通称 東沢を山の方に遡って行ったところにある集落で、綱木川ダムの手前にある集落と言った方が解りやすいかもしれない。

元々の集落から、ダムの堤体が見える。
そこには、もともと烏川集落があったがダムの底になるため、移転していった。
この糸畔集落も、多くの家屋があり、この下手の蟹屋敷集落も含めて、三沢東部小学校の分校「糸畔分校」があった。

現在は、4軒の家屋が残っているのだが、住んでいらっしゃるのは3戸ではないだろうか。

その、もともとの集落の真ん中辺の道端に建っていた。
道路改修のため移転したということだが、元々の場所については、地元の方にお話をきいてみたい。

高さ1mを超える格好の良い石塔だが、碑面はだいぶ摩耗している。
上に梵字で(ウン)があり、その下に「草木供羪塔」と刻まれている。
資料には、文化13年(1816)4月7日とある。
田沢と玉庭そして初めて簗沢地区に登場した。

隣には飯豊山の石塔がある。


今はちょっと草が生えているが、誰かの手によって手入れされている感がある。
後ろの山では、木を伐採しているところだった。

簗沢はもともと、田沢地区と同じ旧三沢村である。
田沢から玉庭と向かう方向は違うが、同じ村であり山続きで、交流の深い場所である。



集落の上手には、立派な神社が守られておりました。
何神社かは確認できず(なにしろ人がいない^^;)

今は、ダムで昔の周囲と様子は全く変わってしまった。



ダムから糸畔集落を眺めてみました。

田沢地区の戸長里地内の旧道側、山側にそのほかの多くの石塔群の前の方に建っている。

地滑り地帯になっていることと、このあたりは田沢でもかなり雪の多い地域ということもあり、前にのめってしまったりしていたものを、地域の方々で修復をされている。

いまは、コンクリートで固めたので、しばらくは大きく動かないものと思われる。

ただし、美観という点では、残念ながら草木塔らしい雰囲気が損なわれてしまっているようだ。
今後の修復時には、ぜひ文化財保護の専門家にアドバイスをしてもらって、取り組んでもらいたいものだ。



この草木塔供養塔は文化4年(1807年)8月8日建立と刻まれている。
草木供養塔の文字の上には梵字で「ウン」という字が刻まれている。
梵字は、仏様の種寺(イニシャルのようなものでしょうか)で、阿閦如来さんを表している。
草木塔に刻まれている梵字は、共通していなくて、「ア」というものや「バク」というものもあるので、これはもう少し調べてみる必要がありそうだ。

そして、この塔はもともとこの場所にあったのではなくて、この場所から200〜300mほど口田沢よりの持原付近の道端に建っていたそうだ。
それが、道路工事の関係で現在地に移されたのだと、民間で長年調査を続けてこられた藤巻氏から教えていただいた。
地元の方から伝え聞いたそうである。






この戸長里集落は、ちょうど玉庭と飯豊町中津川方面から出てくる主要道路が、米沢方面と喜多方方面とを結ぶ国道121号に出てくる場所であり、昔から交通上の要所であった。
そのため、宿があったり商店も軒を並べていた、たいへん活気のある集落であった。

曹洞宗の古刹、洞松院もここにある。


その裏側には、熊野神社が祀られている。


また、古い焼き物の窯「戸長里窯」の跡も調査されている。

しかし、最盛期には、70軒余りの家屋があったこの地域も、過疎化が増し、20軒を切る状態になってしまった。

それでもまだ、昔ながらの大きな家屋や、茅葺屋根の家屋が残っており、往時の面影を残している。
米沢市内から小野川温泉に向かう途中に赤芝というところがある。
そこに、龍性院という真言宗の古刹があり、境内の一角に建っている。

この草木供養塔は、1801年(享和元年)8月15日と刻まれており、最古の草木供養塔が建立された1780年から、20年余りしか経過していない古いものである。

しかし、見つかったのが遅くだいぶ遅く、平成5年にこの地に遷座されたものだ。

なんでも、赤芝近くの河川の工事の際に、河原から発見されたと聞いている。ただし、草木塔が存在することは気が付いていた人もいるらしいのだが、その件も含めて確認をしてみたいと思っている。

平成5年8月15日に地区の有志によって遷座供養が行われ、龍性院のご住職によりこの地に建立がなった。
その後も毎年供養が行われているようで、今年も5月に供養が行われ塔婆が立てられいた。


お寺から小道を挟んで向かい側には、置賜三十三観音の二十五番札所の聖観世音のお堂がある。
最近、置賜三十三観音の整備が進んでいるが、この観音さまも周囲の環境もよく、受け入れ態勢も出来上がっている。
龍性院様が別当になっており納経もそこですることができる。


また、お堂の後方の山裾には羽黒神社が祀られている。
この前の画像でも確認できるだろうか?
山の中腹に、山門から拝殿、そして本殿と立派な建物が残っている。
以前は、近所に宮司さんが住まわれていたようなのだが、現在はどうなっているのだろうか。


この近辺は、旧三沢村の役場があった場所でもあり、どうも、人や神仏が集まる、特別な場所であったのかもしれぬ。

そんな事を想像してお参りをしてきた。
1800年(寛政12年)8月15日に建立と記されている。

この草木供養塔は、東側公民館という地域公民館のある場所の一角に、他の石塔や祠などと並んで立っている。
薬師如来を安置するお堂があり、このお堂と集会所施設(公民館)がつながっている。



ここへの入り口には、立派な石の鳥居が建っている。
お薬師様のお堂なので、鳥居というのも不思議なのだが、その理由がよくわからない。

草木塔の碑面には、供養導師としてだとおもわれる、瑞林寺というお寺の名前が書いてある。
瑞林寺は、ここから中山峠を小野川方面に越えた簗沢地区屋敷という集落に現存するお寺である。
ここの、お薬師様の別当を務めており、後々、米沢市内の観音寺が別当を務めるようになったと思われる。

ちなみに、両寺院とも田沢寺と同じ真言宗醍醐派に所属している。



この場所は、小樽川に近いところに位置しており、市道館山〜湯ノ花沿いにある。
昔は、こちらが田沢地区の主要道路と考えられており、小野川に向かう市道中山街道線との交差路からほど近いところにある。

平成9年には、米沢市の有形民俗文化財に指定されている。

国道121号線の道端のちょっと小高い場所に建っている。
もともと、20〜30mほど離れたところにあったものが、数度の道路改修の度に少しづつ移動して現在地に建てられた25年ほど前だろうか。
国道沿いで、小樽川を望む場所にあるという基本はかわっていない。

石碑の表面には「草木供養塔」ときれいに彫ってあり、その両側には、大明神の物と同じ経文と思われる文字が彫ってある。
上には梵字(ウン)がある。

安永九年八月十三日建立とされており、これは前回ので紹介した玉庭の草木塔と同じ年である。


となりには、同じ年月日に建立されたと思われる「飯豊山供養塔」が建立されている。
田沢近辺では「飯豊山供養塔」はほとんど見つかっていない。
刻まれている字体が草木塔の文字と酷似している。
いささか雑な感じもするが、年号の文字は素人の私が見ても同じに見える。

そう考えると、建立者は同じ人なのかもしれません。


その隣には、お地蔵様のお社がある。
もともとこの地域(白夫平)の人たちがお参りしてきたようであり、今も新しい「おみどじょう」が下げられている。



ちょうど目の前を国道121号が走り、その向こう側は小樽川が流れている。
田沢地区は小樽川に沿って集落ができており、地区を縦貫している。
このあたりは、最も国道と小樽川が近くなって並行して走る。
およそ1km足らずながら、美しい景観を見せてくれる。

川西町柴引というところに、最古の草木塔が建立されてから17年後の寛政9年(1797年)建立と記されている「草木供養塔」が建っている。

加藤さんという個人の屋敷に建てられているというので、探してみた。

村社「海渡神社」という荘厳な雰囲気のある神社の参道近くにその場所を見つけた。



その加藤さんのお宅はすでに長らく人が住んでいない様子であった。
この地域の山村も過疎が進んでいると考えられるので、移転されたのだろう。

近所にも誰もい人影がなく、家もないので黙って勝手に敷地に立ち入らせてもらったm(_ _)m

しかし、その草木塔が建てられている屋敷内まできれいに草が刈られているので、きっとこの石碑の維持をなさっている人がいるのだろうと感じた。


もともと神社近くの道路沿いに建っていたという記録がある。
なるほど、草木塔の隣に建つ石碑はよく道路端で見かける姿をしている。
どのような経過なのかは不明。
道路の拡張・整備に関わり、安全な場所に移転したという見方がオーソドックスだろう。



塩地平や大明神からは10劼阿蕕い竜離だろうか。
隣村になるのだが、昔から玉庭と田沢の交流は多い。
しだいに伝わってきても不思議ではない。

けれど、この17年という年月はどう考えたらよいのだろうか?
入田沢と玉庭柴引の間に、中間の年代に建てられている可能性はないのだろうか?!

興味深いことであります。