なあまずノート
▼別れの儀式
昨日は、私の部屋からも天元台の雪がはっきり見えるようないい天気でした。
うって変わって今日は、冷たい雨が降り、底冷えの田沢です。
皆様のところではいかがでしょうか。
ようやく風邪が治りかけているものの、温度の変化に身体がついて行かない感じで、まだ本調子ではないようです。
昨日は、妻の祖母の葬儀が営まれ、恵まれた天気の中、見送ることができました。
数え年98歳という年齢であったこともあり、全体的には「ご苦労さま」という感じがあります。
安堵感というとおかしいのかもしれませんけどね。
たぶん、人は何歳になったから、もういいべは、っていうようなことは決してないだろうと思います。
もちろん、若くして亡くなった人には、よけい心残りがあるに違いない、そう思います。
自分の年齢(50歳^^;)で想像してみると、まだまだ死にたくなどありませんし、今、死なざるを得ない状況になったら、私には心残りがいっぱいです。
ただし、死というものが、自分の中にだんだん身近になってきている、それは自覚できています。
心身の衰えを感じるからです。
98歳の祖母にとってはどうであったのか。
亡くなったご本人に聞くわけにもいきませんし、死に行く恐怖というようなものも感じていたかもしれません。
ほんとにこれは、周囲でその人と身近で暮らしてきた人にも、本当のところは解らないのかもしれません。
だからこそ、祖母の死に顔が、まるで眠っているような安らかな顔であったことで、「苦しまなかったかもしれないなぁ」大往生だったのではなかろうかと、思いたいわけです。
本当のところは、やっぱりわかりませんけどね。
理屈でどうこういうことではないと思っています。
私の住む地域とそんなに離れていない隣町の隣町のような地方都市での葬儀。
家での儀式や火葬、葬儀・告別式も微妙な習慣の違いというようなところがあるものでした。
画像 (小 中 大)
2010.11.05:あら
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