多田耕太郎BLOG

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長春空港を飛び立った、中国南方航空の機内はほぼ満席で、何組かの比較的年配の方が多い日本人旅行団体が一緒でした。
出発ロビーで目に付いた、ツアーのプレートを着けている年配の方々の話が耳にはいるのを聞くと、長春、ハルビンをまわって来られたようでした。
私の今回の旅行で、大連以外ではほとんど日本人観光客と遭うことがなく、中国東北地方(瀋陽以北)の観光地としての魅力が一般の日本人には、やはり少ないのだなと改めて思いました。
ガイドブックを眺めてみても、ハルビン、長春、瀋陽といった三百万人を越す人口を抱える街の案内でも、歴史的な建造物や観光地として訪れてみたいと思わせるように、魅力をアピールしていないように思います。というよりは景勝地や歴史遺産としての位置づけが、どこかで曖昧になっているのではないか、二三の例外を除けば、戦前に、日本、或いはロシアからもたらされた文化や施設、街並みなどに興味をそそられる程度で、今のそれぞれの街に敢えて観光に行きたいという風にはならないのだろうと思います。
「坂の上の雲」効果で、旅順、大連にはこれからたくさんの観光客が訪れるだろう、ということが言われていますが…。
同乗した、それらの団体の旅行者の方々が、どのような旅先の思いを抱いて帰国するのかに興味を持ったりしたのです。
私が中国東北地方に興味を持って旅行するようになったのは、いわゆるガイドブックに載らない、場所や人に魅力を見出したこと、ましてや歴史的な記述が(日本では)曖昧な所だからでした。
私の周囲の、深い付き合いのない知人などからは、毎年毎年中国へ何をしにいくのか?向こうに誰か「いいひと」がいるに違いない。などと言われることもしばしばです。こういう言葉の裏には、思い込んでいる世界観があり、それが未知数の世界なのに、それらの人に植え付けられた歴史観や偏見の産物のように私には思われます。
仙台空港の到着ゲートを出ると、預け入れ駐車場のワゴン車が待っていて、黄君と二人で暑いねと言いながら荷物を運び入れました。預けてあった車に乗り換え、十日振りに自分で車を運転しました。
山形までの高速道路を走りながら、日本はやっぱり美しい国だ、と改めて思いました。
8月12日午後4時半に自宅へ帰りました。
これで私の2010年の中国東北地方旅行記、終了です。
感想や質問などありましたら、いただきたいと思っています。

2010年9月20日 多田耕太郎

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11日、香賓旅店の前でハンナ先生を見送った後、香賓旅店の食堂に入ると、食堂には15人程が宴会をしていました。その中に日本から里帰りしている親子がいて、話を聞いてみると愛媛県に住んでいるのだそうです。
両親と息子さん二人と七年振りの里帰りで、もう亡くなったのだけれども、この父親の親が、いわゆる残留孤児で、家族全員が日本に帰ってから13年になるのだそうです。
この鏡泊の周辺には残留孤児や残留婦人がたくさんいた、という話しは前回訪れたときも聞いてはいました。この鏡泊周辺の日本人入植者は、昨年私が訪れた、方正県や依蘭県方面のようにまとまった開拓団という形での入植者とは違うようで、それぞれの地区に漁民としてだったり、小さい単位で本来の民間開拓者として入植したようです。地理的な要因で終戦後も移動がままならず、残留しなくてはならなかった人が多かった、のではないかと、私は思います。
なだらかな起伏と肥沃な大地の中で、すべてを賭けて生きていた人達のことを思うと、壇一雄の小説、「夕日と拳銃」の中で、最後に開拓地に骨をうずめる覚悟を決める逸見六郎の心理が重なるようにも思われます。
香賓旅店で、宴会の中に招かれてビールを少しご馳走になった後、二階にある客室に入り、帰国のための準備をして早めに眠りました。
翌、12日は、朝3時に起きて、4時前に黄君とお母さんが餃子を持って来てくれたのを食べて朝食にしました。4時丁度には曽さんが迎えに来て、旅店前で、黄君のお兄さん、お母さん、旅店の女主人の香さんと握手を交わし別れの挨拶をしました。
写真は、鏡泊を出て敦化へ向かう車窓から見た延々と続く畑です。
鏡泊から敦化を通り長春まで450㎞、途中休みなしで高速道路を走り、9時前に空港に着きました。
曽さんとまた再会する約束をして別れ、フライトは12時なので、黄君と二人、出発ロビーでひとを眺めて過ごしました。
8月12日最終日です。

朝食を済ませると、黄君の小学生時代の恩師だったという、曽さんが車で迎えに来てくれました。
曽さんはまだ四十才で七年ほど前に教師を辞めてインターネット関連の仕事をしているそうです。昨年買ったという黒塗りのトヨタカローラはまだ新車の匂いのする車でした。
黄君によると、曽さんに、今日はこの周辺の案内をしてもらい、夕方にハンナ先生を牡丹江まで送ってもらい、明日は私と黄君を、長春の空港まで送ってもらうように頼んだのだそうです。
黄君が、鏡泊湖北部の地下森林公園に行きましょう、といって出かけました。
私は事前に下調べをしていなかったので、地下森林とはどんなものなのか見当がつかなかったのですが、いざ行ってみると火口跡の巨大な窪地に原生林があって、その中に散策路が整備され、高低差100mくらいを降りて洞窟や大木を見学するというところででした。約3時間かけて散策路を一周し、かなりハードな見学コースでした。
鏡泊湖そのものも、1万年ほど前のこの地下森林公園を火口とする噴火によって牡丹江がせき止められて出来た湖なのだそうです。
その後、鏡泊湖観光の正面入り口前の集落にある、三年前に宿泊した食堂兼旅館で昼食をとりました。
三年前は8月の半ば過ぎだったせいか、客も疎らだったように記憶しています。
今年は鏡泊湖の入場口へ向かう車がとても多く、ほかの店の前にもたくさんの車が停まり、賑わっているようです。
やはり、三年前よりは中国の庶民の生活が豊になってきているのだとも思いました。
昼食の後、40㎞ほど北の寧安市渤海鎮にある興隆寺を見学に行きました。興隆寺は以前にも見学したのですが、三年前は渤海国のことをまったく知らないまま見学して素通りしてしまったようなものだったので、今回は、改めて古代史を少し勉強して、高句麗と渤海の繋がりや古代日本との繋がりも何となく感じながら見学することが出来ました。
四時過ぎに鏡泊の香賓旅店に戻りました。
黄君の両親が住んでいる養魚池のほとりにある家で夕食をご馳走になる約束をしていたので、鏡泊から湖の対岸にある黄君の両親の家まで黄君のお兄さんが運転するピックアップトラックで約6㎞の道を行きました。
写真は黄君の両親が管理している養魚池です。この写真の右手に両親が住む15坪程の家があります。
三年前もここを訪れたのですが、そのときは私の母と、横浜のYさん、山形のHさん、それに通訳のイン先生の5人でした。
三年前の風景で忘れられないのは、夕食を香賓旅店でとることになっていたのですが、その前に材料調達の様子を見学がてら黄君の両親の所に行ってみたいということになり、全員で訪ねると、上半身裸の黄君と、お父さんがこの写真にある小舟に乗り投網で夕食用の魚を捕る作業をしていました。私はとても美しい光景だとおもいましたが、私の母と横浜のYさんは、うっすらと涙を滲ませて眺めていたのを思い出します。
人里から何キロも離れた所で魚を育て、それを毎日お父さんが水揚げし、お母さんがバスで50㎞離れた東京城の町まで持って行き、市場で売る生活と、それを日本にいてもいつも気遣う、三男の黄君が父と二人で私たちのために投網をかけている姿が、とても輝いて見えたのです。黄君と彼を育てた世界のようなものに感動したのでした。
その養魚池のある家に着くと、黄君の両親と黄君のもう一人の兄夫婦とその娘さんが出迎えてくれました。お母さんがすぐに家の中に案内してくれて、テーブルの上には乗りきらない程の量の魚料理と餃子、炒め物が並んでいました。
黄君と二人のお兄さん、お父さんが、私と何度もビールで乾杯しながら、「黄君のことをよろしく頼みます。」という言葉が残りました。
辺りが薄暗くなったあたりに、香賓旅店に戻りました。旅店の前には曽さんの車が待っていて、ハンナ先生に「またね!」とだけ、別れを告げて見送りました。
8月11日の夜です。

10日の夕食は黄君が村の中の食堂に招待してくれました。そこは彼の友人が夫婦で開いている焼肉店でした。
私とハンナ先生、黄君のお兄さんが、ご馳走になりました。
店の主人が、下味をつけた羊の骨付きのモモ肉一本を丸ごと回転させながら焼き、ひとりひとりが焼けたところをナイフで切り取って食べるという料理?でした。
そこそこに食べてビールを飲み終わると、黄君がカラオケに行きましょうというので、全員で村のはずれにあるカラオケ店に行きました。二時間ほどみんなで歌って飲んで楽しい時間を過ごし10時に香賓旅店に戻りました。
翌、11日朝は4時に起きてシャワーを浴びて珈琲を飲み、5時から散歩に出かけました。
写真は散歩途中から鏡泊湖を眺めたところです。
散歩は、村からトウモロコシや大豆の畑が続く丘陵に向かい、鏡泊湖を眺めながら隣の村外れを通り抜け、昨日通って来た幹線道路まで5㎞程歩きました。途中、昨日挨拶だけした、村の共産党書記をしているという、孫さん夫婦と会い、「毎日散歩をするのですか?」と聞いてみると、「ほぼ毎日です。」と笑顔で言いながら早足で歩いていきました。
コンクリートで舗装された幅8㍍位の道路を歩いていると、6時を過ぎる頃からトラックやトラクターが、荷台に土木作業に向かう格好をした男女をたくさん乗せて私たちを追い越していきました。
寧安市内や近辺の高速道路や建築の工事現場へ向かうのだと思いますが、今の中国中が建設ラッシュだということが垣間見られました。
幹線道路まで出た所で、黄君に電話を入れてお兄さんに迎えに来てもらい、7時に旅店に戻り、旅店の向かい側にある店で餃子とお粥の朝食をとりました。
8月11日の朝です。

10日の朝は熱も下がり、いつものように四時に目が覚め、少しだけ明るくなった窓の外を眺めながら、お湯を沸かして持参した珈琲を飲みました。
毎年、中国に旅行して一番の楽しみは、どんな小さな街にでもある朝市を眺め回ることです。
ハンナ先生の部屋に電話して五時半に出掛けることにしました。
写真は朝市で売っていた煙草です。巻き紙も一緒に売っていて、試しに吸ってみたところまあまあおいしかったので適当にブレンドしてもらい一包み購入しました。税関で見つかればどうなるのだろうと一瞬考えましたが、まあその時はその時に考えようと思いました。
朝市で目に付いたのはこの煙草の他には松茸でした。一キロ200元(2700円)から150元で売っていました。お土産に手頃かなと思ったのですが、あと三日間持ち歩く期間を考えて止めることにしました。
朝市の場所からほど近い延吉駅に行き、敦化までの9時半発の硬座の切符を買いました。
ホテルに戻り、朝食を済ませてから、李さんに電話を入れてお礼を言うと、「来年はもっと時間をとって長白山観光に行きましょう、待っています。」と言ってくれました。
敦化駅に着いたのは12時で、駅からバスターミナルまで歩いている間に、「冷麺」の看板が目に入ったのでさっそくお昼にしました。
敦化市内も七月末の洪水で市内の至る所が冠水し、橋も流された所が有ったそうです。
バスターミナルに着いて、鏡泊方面へのバスを探しましたがすべて午前中に出てしまい、午後の便は無いというので、やはりここからもタクシーで行くことにしました。
敦化から鏡泊まで180㎞、広葉樹に覆われた山並みを抜ける、出来たばかりの高速道路を走りました。
途中、黄君に電話を入れて、3時前には着くことを知らせました。
三年振りに訪れた鏡泊は、村のたたずまいもあまり変わらず、村の中のメーンストリート?にある食堂兼旅館の前でタクシーを降りると、黄君兄弟が笑顔で出迎えてくれました。
鏡泊は鏡泊湖の南東湖岸にある村で、鏡泊湖を目の前にして背後にはなだらかなトウモロコシ畑が広がる丘陵があり、とても穏やかな雰囲気の村です。
夕食まで黄君とハンナ先生と三人で湖岸を散策して過ごしました。
8月10日です。
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8日午後7時に延吉空港の到着フロアへ出てみると、李さんが待っていてくれて、お互い初対面なのに不思議と目線が合っただけで手を挙げて挨拶することが出来ました。
空港前の駐車場から李さんが予約してくれていた、タクシーに乗り込みホテルへ向かいました。延吉市にはこれまで何回か汽車に乗ったまま通過したことはありますが、市内に入るのは初めてです。
夜景を見る限り、こじんまりした地方都市という印象でした。
李さんが予約してくれた、考世茂大酒店というホテルは中規模なホテルで、暗くなってから入ったせいか場末のホテルという第一印象でした。でも、実際に部屋へ入ってみると、清潔で不足のない部屋だったので安心しました。
服務員にシャツやズボンの洗濯を頼み、部屋を出て、ロビーで李さんとハンナ先生と待ち合わせ、ホテルの筋向かいにある焼肉店で夕食をとりました。
その焼肉店の中は蒸し暑く、テーブルの上には数匹の蠅がいて、昨年、鶏西市で焼き肉を食べてひどく腹をこわしたことを思い出し、出された大盛のユッケには、なかなか箸を付けることが出来ませんでした。
李さんが、明日は夕方まで時間があるので揮春まで案内してあげますと言うので、明日はここにもう一泊することにしました。
ハンナ先生の都合を聞くと、明日は1日、休みをもらい、ホテルに留まって、14日にある論文発表の準備や授業のための資料を作ったりしたい、とのことでしたので、明日は李さんと二人で防川展望台まで行く予定を立てました。
翌9日朝、八時半に李さんとロビーで待ち合わせ、駅前まで行き、バスで図門市(約60㎞)へ向かいました。
図門市から揮春市まで(約80㎞)もバスで、豆満江沿いを走りました。この図満江沿いの道路の対岸はずっと北朝鮮領で、対岸にはポツポツと民家らしき家や監視所らしき建物なども見えました。
揮春から防川展望台まで(60㎞)はタクシーで行き、11時半に国境警備監視所のゲートに着きました。
写真は、展望台から眺めた豆満江河口方向です。この展望台までが中国領で写真の豆満江左側はロシア領、右側は北朝鮮領です。中央に見える鉄橋は唯一、ロシアと北朝鮮を直接結ぶ橋だそうです。この展望台には(日本海まで12㎞)というプレートも取り付けてありました。
この展望台には李さんによれば、「韓国人」の団体が四組一緒に登り、盛んに記念写真を撮っていました。
李さん自身は、朝鮮族中国人なので彼等が話している内容は当然解るはずなのに、解らない振りをしているように私には見えました。
帰り道、同じタクシーで揮春まで戻りながら車内で、どこで昼食を取りましょうかなどと、李さんと話をしている間に、猛烈な便意に襲われてしまいました。タクシーを降りるとすぐに間近にあるホテルに駆け込み、用をすませましたが、やはり昨日の焼肉店の何かが悪かったのかな、などと考えてしまいました。
熱も出てきて、李さんが、早くホテルに戻って休んだ方がいいですよ、というので、揮春から延吉までタクシーで帰りました。
3時半にホテルへ戻り、李さんにお礼を言ってそのまま部屋に入り、熱を測ると38度あるのでバッファリンを飲んで横になりました。
六時に目を覚まし、ハンナ先生の部屋へ電話を入れて状況を説明すると、水分をとったほうがいいですね、と言ってから暫くして、スイカとミネラルウォーターを買ってきてくれました。
後は、少しスイカを食べ、持ってきた本の最後の三冊目を読みながら眠りました。
8月9日でした。

写真は7日夜に、星海広場で開かれていた、ビール祭りの中のアサヒビールテント内イベント会場です。
中国国内のビールメーカーや日本などの外国メーカーが、それぞれに大型テント内でビアガーデン風のイベントを開いていました。
ハンナ先生が是非とも「アサヒビール」を飲んでみたいと言うので、アサヒビール館に入りました。中には日本人が多くいて、ちょうど隣り合わせの席は、日本人男性二人と中国人女性と男性の四人グループでした。
バンドの演奏があり、会話するには不自由な空間でした。
牛肉の串焼きとソーセージ、それにサラダなどを食べながら、二人で2リットルのビールを飲みました。ハンナ先生はこんなにビールを飲んだのは初めてです。と言いながら、星海広場に続く砂浜に降りて行き、素足になってくるぶしのあたりまで海水に浸っていました。そして、海に足を入れたのも初めてです、とも言っていました。
翌日、8日朝、ホテルの最上階にある展望レストランで朝食をとりながら、次の目的地をどこにするかを空港に行って決めることにしました。というのは、当初、大連から牡丹江まで9日(週三便)の飛行機で移動する予定だったのですが、瀋陽でチケットを申し込んだところ、満席だったのです。大連から東北地方では、長春、牡丹江、ハルビン、延吉にしか直行便が出ていません。黄君がいる鏡泊に行くには牡丹江が一番近いのですが、それには乗れないとなると、ハルビンか延吉に行くしかありません。まだ日程も有ることだし、ということで、結局延吉に夕方の便で行くことにしました。
延吉には、以前通訳者として紹介してもらったことのある、李さんという方がいるので、早速電話を入れてみました。
李さんにはホテルの予約をお願いし、時間があれば空港に迎えに来てから一緒に食事をしましょう、と話すと快諾を得られました。
午後四時のフライトなので、午前中は老虎灘付近を散策して、昼食に大連名物の高級海鮮料理を食べ、午後からはホテル内の浴場で垢すりマッサージをすることにしました。
予定通り2時半までにホテルを出て、空港へ向かいました。
空港でハンナ先生が大学時代の友達と待ち合わせをしており、三人でお茶を飲み、その彼女が10月に結婚するという話を興味深く聞き入りました。
大連空港の国内線搭乗ゲートは20以上もあり延吉行きのゲートは一番奥でした。
天候のせいなのか出発時間が一時間遅れ、五時の出発で、延吉の空港で預け入れ荷物が出てくるのが遅かったせいもあり、李さんと初めて対面したときは七時を過ぎていました。

6日に宿泊した、遼寧賓館は満州国時代、満鉄が経営していた奉天ヤマトホテルで、当時の外観と室内装飾が、ほとんどそのまま残っていて、七十年前は超一流ホテルだっただろうと感じさせました。でも、現在の中国のいわゆるシティホテルの中では見劣りするのは否めません。客室は清潔でよく手入れが行き届いているのですが、エトランスやラウンジが、手狭で古く、レトロな気品のようなものが感じられませんでした。ハルビンの同じヤマトホテルだった龍門大夏は数段格上のように記憶しています。多分、経営者が違うのではないかと思います。大連や長春の同じヤマトホテルだったそれぞれのホテルも、泊まったことはありませんが、食事や見学に訪れたことがあり、この遼寧賓館と似たようなものでした。日本人として、もう少し手を入れてメンテナンスして欲しいと思います。
その遼寧賓館で朝食を済ませ、瀋陽故宮に向かいました。一時間程で一回りし、ただただ人の多さに疲れてしまいました。その後に「9・18」記念館を見学しました。写真は記念館のモニュメントで、しかもこの記念館の半地下構造の入り口になっているのです。展示物を丹念に見て回りましたが、こういった展示館のお決まりのような、反日思想のプロバガンダなのかな、という思いも抱きました。
外に出て、広場の隅の方に晒し者のように倒された状態で置かれていた満鉄職員の殉職者慰霊碑や顕彰碑などを見ると、やるせない気持ちになりました。
昼過ぎに、バスターミナルへ行き、大連までの高速バスのチケットを買い、ターミナルの向かい側にある洋食レストランでパスタを食べてから、一時半発のバスに乗り、大連へ向けて出発しました。高速バスは横三列シートで、とてもゆったり座ることができる上に、リクライニングも相当なところまで効き、名ばかりの物が多い中国ので、「豪華バス」と謳った本物に出会った、と思いました。
大連まで400㎞四時間半の乗車中は読書と軽い睡眠に当てることができました。
午後六時に大連のバスターミナルに着き、そこから今夜宿泊するホテル、大連駅前にある渤海明珠大酒店へ向かいました。
チェックインを済ませ、たまたまロビーに貼ってあった「大連ビール祭り」のポスターを見て、夕食はここにしょう、ということになり、会場の星海広場へ向かいました。
8月7日です。

5日の夜に丹東の金さんに電話を入れると、七月末からの、特に北朝鮮方面の大雨のため鴨緑江が増水し、丹東市内には軍隊も出動して復旧に当たっている状況なので、ホテルなども機能が麻痺しているから今回はパスしたほうがいいですよ。と言われました。
予定ではバスで丹東まで行って一泊し、翌日金さんに半日ほど丹東市内を案内してもらい、その後大連に向かうつもりだったのです。金さんの電話の内容からすると、とても案内どこではなさそうなので、今回は丹東行きも諦めて、瀋陽市から大連に向かうことにしました。
集安市から通化市までバスで戻り、通化市から瀋陽市まで汽車かバスで行こうと思って、午後一時半発のバスで通化市へ向かいました。三時半に通化のバスターミナルに着いて、バスと汽車の時刻表を見てみると、汽車は寝台券が売り切れで、バスは当日の最終便が出たばかりでした。
バスターミナルの前で思案していると、タクシーの運転手が声を掛けてきて、瀋陽まで350㎞、500元(日本円で6800円)でどうだ、と言うので乗り込むことにしました。
運転手の話では、通常は4時間半位で着くけれども、途中、洪水のために橋が流されたり土砂崩れの箇所があるので、今日はもっと時間がかかるかもしれないとのことでした。
通化をでると一時間ほど高速道路を走り、その先は一般道路になり、いたるところで洪水の跡が見て取れました。実際に橋が流されていて、迂回道路で大型トラックが立ち往生していたり、土砂崩れのため大きく迂回する道路が造られていました。洪水の直後であれば通行止めで、通化に一泊しなければならなかったな、とも思いました。
撫順市の手前で暗くなり、結局瀋陽に着いたのが九時半でした。
タクシーの中から電話で予約した遼寧賓館にチェックインし、ハンナ先生と相談して、清真(回族)料理を食べに出ることにしました。写真は、清真(回族)料理店の前に出された、中国のどんな街にもある屋台風の出店です。羊の串焼きと、野菜炒め、それにあまりおいしくない枝豆をつまみに生ぬるいビールを飲みました。
8月6日の夜です。

四平市のバスターミナルを午前8時に出発し、通化市まで300㎞四時間、ほとんどの区間が高速化されており、バスも新しく快適な乗りごごちでした。
車内で、四平市と通化市の概要を記した資料を読み返し、終戦後の国共内戦の激戦地だった四平市、それに先だって起こった、いわゆる通化事件などについて、ハンナ先生と話しながら行きました。
私は、中国東北地方(所謂旧満州)を旅するようになってから、いつも感じるのは、かつてこの広い大地に数百万人の日本人が生活をしていて、この大地に骨を埋める覚悟でたくさんの夢を持っていた人びとの思いというものが、本来の形として何も残っていないのが不思議だということです。
それは、今の中国の中で、旧満州国の扱いが侵略の象徴とされていて、評価するべきことは何もないとする立場を中国が国として採っているからだと思われます。それに加えて、日本国内でも、満州国についてや、それら国策に関わった事実についての肯定的な記述が一部プライベートな手記などにあるだけで、ほとんど見受けられません。旅をしていて、たくさんの中国の人と話をすると、日本人がかつて作った構造物や施設について、ためらいなく説明をしてくれたり、その存在そのものに親しみを持っている人が多いように感じられます。
私自身は、東北地方を旅するようになったこれまでの六年の間、多くのことを知ることが出来たと思っています。しかし、まだまだ本当のところの中国、特に20世紀の中国(東北地方の中)で日本人は、いったいどんな夢を描いていたのか知ることが出来ません。
この国の辿ってきた終戦後の歴史について、所謂80后(パーリンホー)世代のハンナ先生が、そういった事柄は解決済みだ、ということで話さないのに、少々の苛立ちを覚えたりもしました。
ハンナ先生とそのような話をしている間に、12時丁度、バスは通化市のバスターミナルに着きました。
通化市は、臨江市、集安市、丹東市それぞれに分岐する街なので、これから先の日程を考え140㎞先の臨江市へ行って明日戻り、また集安市へ行くのは無理があるので取りやめることにしました。
臨江市に行ってみたかった最大の理由は、壇一雄の小説「夕日と拳銃」の舞台になった街のひとつだったからでした。またの機会に残すことにし、次に訪れるときは長白山観光も兼ねることにしようとも思いました。
そう決めるとすぐに集安市に向かおうと思い、通化市から集安市まで110㎞。タクシーと交渉して200元(日本円で約2700円)で行ってもらうことにしました。
通化市は周囲を山に囲まれた盆地の地形で、ワインの産地としても知られているそうです。よく見るとワイン用のブドウ栽培畑があちこちに見え、平地の稲作と合わせてみると、ここが日本の信州あたりといわれればそうかな、と思えるようです。集安までの谷合の街道なども山形から仙台に抜ける国道かと思えるような、私にとっては馴染んでいる風景が続きました。
二時過ぎに、通化から予約を入れていた香港大酒店というホテルに着きました。
この後の記録は、ブログ旅行記その1に続きます。
8月5日です。


白城市から四平市まで南東に約400kmを七時間バスに揺られて走りました。全体の四分の一位は高速化されていましたが、残りの道路は旧道を走りました。いたる所で高速道路の工事が急ピッチで進められている様子がうかがえます。工事を進める際の通行車両の管理や、工事区間が既存の道路だったりした場合の路面の管理が、全くなされておらず、路面は凸凹が激しく、対向車両はお互いにクラクションを鳴らし合い、混乱の極みといった状況のところがたくさんありました。
そんなバスの中で、ハンナ先生がバスターミナルの売店から買ってきたパンとミネラルウォーターそれに果物を食べ、昼食にしました。
ハンナ先生との事前の打ち合わせでは、長距離バスは四時間位が限度だと話していたのですが、今回はかなりオーバーしてしまい、予定では、四平市でバスを乗り継ぎ、その先の梅河口市まで行くつもりでしたが、四平市で一泊していくことにしました。
四平市に近づくと、丘陵地が見えてきて、これまでの単調な風景が変わりました。
午後五時に四平市のバスターミナルに着き、すぐ隣の交通賓館にチェックインしました。早めの夕食を済ませて、休むようにしようとハンナ先生と相談して、近所の食堂で簡単な食事をとり、早めに休みました。
写真は食堂の厨房です。
8月4日です。

3日の夜は鳳山さん夫婦から、中国では「火鍋」という、しゃぶしゃぶをご馳走になりながら、たくさんの話をしました。食事の最中に北京にいる、イユエンさんから鳳山さんの携帯に電話が入り、鳳山さんには、私のことをくれぐれも歓待してほしいと話し、私と代わると「今回は多田さんと会えなくてとても残念です、来年は必ず会いましょう。」と語ってくれました。
私は、鳳山さん夫婦に「イユエンは、とてもしっかりしているお嬢さんだ。ひとりでも十分やっていけますね。」と話し、昨年、十日間イユエンさんと二人で旅した、牡丹江市、スイフン河市、鶴西市、ジャムス市、方正県、斉斉哈爾市などで、通訳者ガイドとしても十分過ぎる程の役目をはたして呉れたことなどを説明したのです。
鳳山さんは私に、「多田さんと私は友人だ、ずっと交流していこう、白城市に毎年来てください、いつでも大歓迎です。」と言って何度もビールで乾杯をしました。
ご馳走になった後、白城駅近くの白城賓館までご夫婦も一緒に乗って、タクシーで送ってもらいました。
4日の朝食を取りに朝食会場に降りてみると、鳳山さんがこのホテルに宿泊している黒竜江省の友人だという方と一緒に既に食事をしていました。隣の席を勧められ、友人に私とハンナ先生を紹介して呉れました。食事が終わり珈琲や豆乳を飲みながら、これからの旅行の予定について尋ねられたので、「集安と臨江それに丹東を回る予定です。」と答えると、「集安は旅行をするにはとてもいいところです、歴史好きな多田さんならきっと満足するでしょう。楽しい旅になることを祈っています。」と言いながら握手を交わし別れたのです。
午前10時発のバスで四平市まで出発しました。写真はバスターミナルから見た白城駅舎です。
8月4日です。

長春駅は改修工事中で、一部の列車の発着以外は本来の駅舎から1500m程ハルビン寄りの場所に仮設駅が設えてありました。中国の工事中の案内というのはとても不親切で、こういう公共施設でさえも、移転先の案内が100m毎に、あまり目立たない標識が立っているだけで、かなり混雑する道路については、車と人が入り乱れているままです。
仮設駅の待合室は体育館のような広さで、何千人という人が汽車待ちをしていました。
白城市には2005年以来毎年訪れているのですが、汽車に乗って行くのは初めてのことです。
白城市は長春の北西350kmのところに位置し、長春から白城市までの風景は山ひとつなく、トウモロコシや豆の畑以外は草原です。まさしく360゜視界の広がる、日本では体験できない空間です。
私は2005年の冬以来、毎年白城市を訪れています。
実は、今年の5月まで七年間、私のところで働いていたハオ鳳林君のふるさとが白城市で、彼の紹介で訪れたのが最初だったのです。
鳳林君のお兄さん、鳳山さん夫婦からは初対面の時からお世話になりました。鳳山さんは現在、白城市の国税局長を務めており、奥さんは市内の中学校の地理の先生だそうです。
お二人には一人娘の、イユエンさんがいます。彼女と初めて出会ったのも2005年ですが、そのときはまだ、高校二年生だったと記憶しています。その後、彼女は長春の大学(日本語学科)に進み、現在は大学を卒業し、北京にあるソフトウェア関連の日系企業に勤めています。
イユエンさんとは、彼女が大学の二年と三年の時に、ボランティアの通訳として旅行を一緒にして貰いました。
彼女には日本へ留学したいという希望があるのですが、いろいろな意味でハードルが高く、解決しなければならない問題もあると聞いています。
今回は、鳳山さん夫婦に鳳林君が辞めたいきさつの説明と、これまでの恩義に報いるための謝意を伝えるために白城市に向かったのです。
8月3日午後6時15分に白城駅に着きました。
改札口外の広場には、鳳山さんの奥さんが手を振って待っていてくれて、私は、ふっと、懐かしいふるさとに帰ったような気持ちになりました。

これまで、長春の街の中の満州国に関わる施設や建物などは大分見学していますが、ほとんどの施設名称の頭に「偽満」という、文字が付いています。例えば、偽満州国務院とか、偽満皇宮博物院とかです。最初に長春を訪れたときに覚えた違和感は何度訪れても変わらず私の中にあります。そんな事を含めて、ハンナ先生と今日、明日のスケジュールなどを話しながら、長春賓館で朝食を済ませ、第一の目的地、旧満映撮影所へタクシーで向かいました。入り口の門のところにある管理室の中には三人の係員が居ましたが、見学したい趣旨を告げると、にべもなく「駄目!」というだけでした。多分、まだ改修工事が終わっていないのでしょうが、何の説明もなく、とても残念な思いをしました。写真は、その門のところから建物の正面玄関を写したものです。甘粕正彦が理事長時代、バルコニーの上に立って出勤して来る社員達を眺めていた場所だそうです。
ハンナ先生が、何度か交渉しましたが埒があかず、またの機会にと引き返し、偽満皇宮博物院を見学して、白城市への汽車時間まで過ごすことにしました。偽満皇宮博物院を訪れるのは、今回で四度目ですが、周辺施設やそれぞれの展示物が訪れる度に整備されているのが見て取れました。8月3日の午前です。

ブログの旅行記の始まりを、唐突に集安市から始めてしまったので、改めて旅行の初日から集安市までの経過を書いてみたいと思います。
8月2日、仙台空港から黄哲華君と一緒に中国南方航空の飛行機で、長春に向けて午後四時に出発しました。
今回は、どうしても行ってみたいところが一カ所と、行かなければならないと思った街が三カ所あり、それは、行ってみたいところが長春の旧満映撮影所、行かなければならない街が白城市、集安市、丹東市でした。
長春の旧満映撮影所は、これまで私がとても気になる日本人のひとり、と思っている甘粕正彦が理事長として君臨し、終戦の数日後に服毒自殺を遂げた場所だからです。これまで二度、訪ねたのですが、改修中ということで、門より中には入れなかったのです。多分、今回は改修工事も終わり入れるのではないかと思っていたのです。
白城市は、昨年案内と通訳をボランティアでしてくれた、イユエンさんの両親に面会するため。集安市と丹東市は東北地方の国境の街で、訪ね残っている街だからです。
予定としては、それらの街や史跡を8日間ほどで回り、最後の二日間を黄哲華君の実家のある、寧安市鏡泊で過ごし、12日の早朝に黄君と一緒に鏡泊を出発し長春に戻り、日本へ帰る計画でした。
長春の空港に着いて、通関手続きを終え、到着フロアへ出ると、ハンナ先生と黄君のお兄さんが出迎えてくれていて、黄君のお兄さんと三年振りの再会の握手を交わしました。
ハンナ先生とは初対面でしたが、今回の旅行についてのスケジュールや目的については、メールや電話で打合せをしていたので旧知の友達に再会したような対面でした。
黄君達は、空港から真っ直ぐお父さんやお母さんの待つ鏡泊へ車で向かうので、駐車場でしばしの別れを告げました。
空港から長春市内までタクシーで向かいましたが、毎年、市内に向かう沿道の街並みや行き交う車が立派なものになっているのが、はっきりと見て取れました。
ハンナ先生にその事を言うと、「そうですね。」と軽く流されてしまいましたが、彼女自身も同じ思いなのだということが感じられました。
2005年の冬に、初めて長春の旧空港に降り立った時に感じた、閉ざされたような雰囲気はほとんど感じられず、特に、2008年の北京オリンピックの前と後では、大きく国全体の有り様が変わったように思います。
そんな想いを考えながら、毎年宿泊している長春賓館に着いたのでした。
8月2日です。


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