有限会社コンサルネット

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 人生は生きるべきものであって考えるべきものではない。空理空論を弄していても、経営は好転しない。ともかく企業が潰れぬように、生き残れるように努力し、行動するだけである。経営者の行動についても何がよいとか悪いとかいっても、善悪すべて比較より生ずる現象であるから気にしないことである。何が正しい生き方だといっても、庶民の立場もあれば、管理者、経営者の立場もあるし、政治家という立場もある。それぞれ、あるべき姿や使命が違うのである。おかれた地位にふさわしくないやり方をすればダメだということである。 一国を預かる政治家が、国のことを憂えず個人の立場だけを考えて行動すれば、それは政治屋とよばれる。同じ事業をやっていても、生業もあれば、家業もあり、そして企業もある。事件屋的なやり方をする人もいれば、事業家、経営家もいる。要はセンスの問題であり、人間の持つ幅の問題ともいえよう。それぞれの人生において、大を成すには、右顧左眄せずに一人で行くことだ。己の信じる自分の道を進む以外に方法はない。信念のあるところ、それが世に受け入れられるものである限り、そこには共鳴する人が生まれてくるものである。一人の先達者の下に、万人が生まれるのである。経営者は共鳴、共振、同調の発信源とならなければならない。世に多くの共鳴者を呼び、同調者を獲得するためには、企業のリーダーとしての生き方を知っていなければならない。生き方とは、それぞれの分野において、社会にどう貢献していくかということであり、個々人の立場中心に考えていくことではない。つまり、自己中心のエゴイストや怠け者であってはならないということである。われわれは、経営者として、いま一度、生き方について考えるべきではないだろうか。



経営者が集まると話題はたいてい決まっている。「優秀な人が集まらない」「入社しても直ぐに辞めてしまう」「古い人の頭の切り替えがなかなかできない」「競争が激しく利益も減ってきた」「売上が下がり資金繰りが苦しくなってきた」「将来に対して漠然とした不安がある」等々。いずれも、話に終わって対策なく、成り行き任せの経営をやっている。
従業員だけでなく、わが子までも会社を継ぐことは嫌だという。実の息子でもそうなのだから、まして他人で、一生をこの会社で働こうという奇特な人は集まらない。会社と子どもは自分で作ったものでありながら、大きくなれば自分のいうことをきかなくなる。子どもが親の商売に魅力を感じないのは、人生をかける夢や希望がないからだ。三年先には売上と利益をいくらにして、五年後には企業をどこまで発展させるという将来の目標や理想がなく、ただ、毎日一生懸命に働くだけでは、肉体的な疲労のみが残り楽しみはない。将来の不安だけがいつまでも付きまとう。
目標もなければ抱負もない、毎日毎日なんとなく過ごして、一家がメシを食えればよい、と考えているような会社や商店は企業とはいわない。これを家業という。目標があるから努力が存在し、仕事に張りができる。毎日の激務の苦しみが喜びに変わる。会社や店の規模が問題ではない。経営者として、会社をどのようにもっていくかのビジョンがあるかないかで、企業か家業かに分かれる。そして、それをどのように徹底させ、具体化していくかによって、従業員が定着し、努力するかどうかが決まるのである。
会社は、その事業を行うために志を同じくする同志の集団でなければならない。そのために、一つの理想や抱負や目標が必要なのだ。そこから経営活動が始まる。上も下もない、チーム一丸となって作戦を検討し、実行し、反省していくのだ。各人ごとの成績がわかるように、目標を個々に割り当てていく。野球やゴルフ、競馬などが面白いのは、勝敗やその時点での成績がハッキリわかるからである。これにスピード感と金銭が加わるといっそう面白くなる。仕事をこのようにゲーム化していく。毎日、毎週、毎月の成績がわかるようにしていく。予定と実績が対比できるようにしなければならない。
商売はビジネスであり、ソロバン勘定であるにもかかわらず、自分の感情や個人的な血縁、友人関係などを経営の中に持ち込む。個人的なことはソロバンにのらない人間関係である。これを経営の中で混同するから、従業員も勤めにくいし、経営もうまくいかない。
あらゆるものが勉強であり、PR紙だけでもよく読めば経営にプラスすること大である。講習会なども色々ある。しかるに、宴会やゴルフとなると万障繰り合わせて出席しても、研修や勉強会には出て行こうとしない。時間と金の使い方をみると、人間の値打ちがわかるというが、まさにそのとおりである。同業者より抜きん出ようとするならば、人一倍勉強することだ。一生懸命働くということはよいことだ。稼ぐに追いつく貧乏なしというが、職人や社員と同じように働くだけではダメで、経営者は頭を人一倍使うことが必要である。
経営者は判断を下すのが仕事である。とにかく頭を悩ます問題にぶつかると、心が沈み、ものごとを悲観的に考えがちである。難問にぶつかることによって経営者は成長するのだ。不渡りをつかまされても、人が辞めても、これを将来の自分の発展のための試練と考えると、原因を調べ、対策を立て、過ちを二度と繰り返さないようにしていくだろう。すべてプラスに考える。前向きに考えることだ。経営者の基本的な問題について改めて反省して欲しい。

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 今の若い世代は、残業を嫌い、仕事よりは遊び、地位よりはマイホーム中心で生活を楽しもうとしている傾向があると嘆く経営者や管理者は多い。
 どのような時代になっても、企業を潰さぬようにもっていくには、会社中心、仕事中心の考え方を若い人たちにもってもらうようにしなければならないという。
 しかし、省みて、自分自身はどうかを反省してみていただきたい。おれたちは別だ、自分らが平社員のときはこうだったというのは、言い訳に過ぎない。地位というのはより以上働くためにあるのであり、また幹部はこれらの若い人たちに、監視されているのである。
 業績が上がらぬのに付き合いゴルフに出かけ、また、各種の社交団体に出席している。社業を留守にして、やれ!と気合ばかりかけていて業績があがるはずがない。週間ゴルフをやり、付き合い酒を楽しみ、毎朝遅く出てきて、何が社業にプラスになる妙薬があるのだろうか。
 付き合いにはそれぞれ大義名分がある。しかし、建前と本音は違う。嫌いなら、ゴルフも酒もやらないはずだ。やはり、遊びが面白いからである。自分の趣味を満足させ、個人の見栄や体裁が、そのような行動をとらしめているのである。あるいは、自分の行動を合法化させるために部下を誘い、会社の金を浪費して、遊びをおぼえさせる。これで、業績が上がるなら不思議である。いずれ蹉跌がくるのは分かりきっている。士気が上がるはずがない。
 費用を捻出するために数字をごまかし、地道な努力よりは一発当てよう式の行動をし、収奪的な農法でやるから、いつの間にか肥沃な土地もやせ、気がついたときには、取り返しがつかない状態に陥ってしまう。
 若い人はと、うんぬんするより先に、自らの時間と費用の使い方を反省することだ。朝は早く出勤し、夕は部下よりも後で退勤せよ。同業者並みの行動をしていてはダメである。週刊誌やスポーツ紙を読む暇があるなら経営書を読め。業績はトップの責任である。
 異質の時代に生き残るためには、まず、上層部が姿勢を正すことである。そして、そこから真の会社らしさ、すなわち「会社とは事業を行うために、志を同じくする同志の集団でなければならない」のであり、どこを切っても同じ血が流れ、トップと同じ考え方、同じ行動をする幹部が育ってくるのである。
 目標にチャレンジし、どのような苦しみにも耐え抜き、失敗にも屈せず、なんとか競争に勝ち抜き、成長せんとする創業精神に立ち返っての若々しさ、青年らしさのある体質がなければ、これからの経営はやっていけないといえよう。

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 古今集に「世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日の瀬となる」
と詠われている。
われわれの先輩は、今から1千年以上も前の飛鳥時代にこのような戒めの歌を残してくれている。
 世の中というのは、何一つ変わらぬように流れている飛鳥川の流れと同じである。昨日までどんより淀んでいた淵が、一夜明けた今日は、川のせせらぎが聞こえるような浅瀬になっている。世の中というのは、このように変化の激しいものだ、と教えている。
 当時と比べて、現代の変化の速さと大きさは比べようもないが、これに対処する心構えは、いつの世でも同じでなければならない。
 変化があるのが当たり前と考えれば、私たちをめぐる環境の激変も苦しみにはならない。生きていくものにとっての真理は、やはり、変わらないのである。



 島崎藤村は、故郷を「血につながるふるさと」「心につながるふるさと」「ことばにつながるふるさと」と謳い上げたが、故郷とは目に見えぬ糸で人をつなぎ合わせ、つなぎとめ、心の安らぎを感じさせるところだと思う。
 血につながり、心につながり、ことばにつながるとなると、それは家庭であり、ファミリーである。
 狭い意味でのファミリー経営ではなく、血のつながる仕事、心の通い合う取引き、意思疎通がうまくいく管理を「故郷経営」といいたい。
 血がつながっているからこそ、そこにはウソもケレンもない。親戚付き合いのできる取引先、親子のような労使関係も生まれるだろうし、心がつながっているから、やる仕事についてもデタラメではなく、愛情のこもったものになるだろう。
 ことばにつながるとなると、社内での全ての指示、命令、施策は相手が理解できるようにしなければならないし、外部に対しても話の分かるやり方をしていかねばならない。 ことばが通じ、話が分かるというのは、自分を相手の線までもっていくことが先決であるから、上司、同僚、部下、取引先、消費者と立場が異なる相手に対する基本的なあり方を示すことにもなろう。
 一方的なやり方ではダメで、通達、提示、書式、カタログ、セールス、仕入れ、内部管理も、ことばが通じるように改めていかねばならない。ことばで通じないなら、心で、血で訴えることもできる。聞き手が心で、血で、ことばで聞くというようにもっていくことを「対話」というのである。
”血のつながる仕事””心のつながる仕事””ことばのつながる仕事”ができれば、企業に少しでも縁のあった人々は、絶対にそれを忘れることはないであろう。
 魅力には、いろいろな解釈の仕方がある。物質面での魅力となると、その企業がもっている力には、それぞれ差があり、なかなか理想どおりいかないものである。
しかし、精神的な魅力、つまり、人を引きつけるたずなとなるものは、どこにでもあるのではないだろうか。それは誠実に裏打ちされた、「故郷経営」から生まれてくる。

スポーツの解説を聞いていると「精神力」という言葉がよく出てくる。
スポーツに耐えることを期待しているのは、日本人は人生全般についても耐えることが好きなためではなかろうか?
勝利を得るためには、耐えや苦しみがなければならないと思っている。
人間の精神の力はもっともっと豊かなものであり、例えば「イマジネーション」こそ人間の「精神」の働きそのものではないだろうか。
「耐える」ことだけを精神力と思う日本のスポーツマンの訓練法や人生訓が、イマジネーションという豊かな精神の働きを破壊していないか反省してみる必要がある。
(こころの処方箋より)