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ウソをつけないほうがもっと悪い。
ウソをつきとおすことに伴う精神的エネルギーの大変さを感じたことのない人はないだろう。
だからか、私たちはウソをつきとおすことは、たいていの場合できない。
思い余って正直に告白したり、それとなくほのめかすこともある。
ウソをつかれると、その人にウソつきのレッテルを貼るが、ということはその瞬間、人はそれをウソと知っているということで、それはウソでもなんでもない。そこにはウソは存在しないということではないだろうか。
ウソをつける精神力を養おうといったらウソになるであろうか。

(こころの日曜日より)

「人から嫌われたくない。人が自分のことをどう思っているのか気になる。
後ろ指だけは差されたくない」と思う人は実に多い。
そんな人には「一度変人になってしまえば、後でとやかくいわれることは少ない」
ことをお勧めしている。
「他人から嫌われたくない」という心理の奥には、自分への愛着が秘められている。
人から、普通に見られることを求めながら、普通以上に見られることを期待している。
この変人の勧めは、実は「変人」を自らの内に受容していく過程こそ重要であり、
その結果「後ろ指を差されたくない」から「後ろ指を差されてもいい」となり、
さらには「後ろ指を差されたい」にまで高められます。
あとは「立派な後ろ指の差され方」についての検討がなされれば、怖いものなしです。

(こころの日曜日より)

流れに棹さすとは、「傾向に乗って、ある事柄の勢いを増すような行為をすること」をいう。
人生は複雑で不可解なものだ。
そのなかで自分の個性を尊重して生きるとなると、色々な人がいる。
流れに棹さす人、逆棹の愛好者、ついつい逆をやってしまう人、それぞれに自分の個性を見極め、それに伴う苦しみと楽しみの味がわかってくると、ともかく、他人をうらやましがることはなくなるようである。

(ココロの止まり木より)



人間は何か普通と異なることをするときは、練習をしなくてはならない。
別れの練習とは、趙炳華(チョウビョンファ)の「分かれる練習をしながら」
という詩にあった言葉である。

分かれる練習をしながら、生きよう
立ち去る練習をしながら、生きよう
互いに時間切れになるだろうから
しかし、それが人生
この世に来て
知らなくてはならないのは
立ち去ることなんだ

こんな大切な出番のために練習しないのは、まったく手抜かりである。

(ココロの止まり木より)


「感動と疑問」どちらも「人を動かす」ものである。何かの話に感動して、よしやろうと思う。あるいは、何かに疑問をもって、追求していく。
感動によって動かされるときでも、新たな創造に向うことはあるが、ともすると受け身になったり、方向性の決まったものになりがちだ。
これに対して、疑問の方は、それを抱く人の主体にかかわってくるので、どの方向に向うか分からず、創造的な要素が強くなってくる。
親や教師などが、子供が感動するのは好きだが、疑問をもつのを嫌がることが多いのは、感動は、大人の思い通りなので安心なのである。ところが疑問となると、どこに話が進んでいくか分からない。
そこで、なるべく疑問を封じて感動させようとするので、子供の創造性の芽が摘み取られるのではなかろうか。
感動はもちろん大切なことであるが、疑問に対しても開かれた態度で大人が子供に接し、子供から出される疑問を育てようとすると、創造性が高まると思う。

(ココロの止まり木より)


 何事であれ、その道に一生をかける人をプロという。遊びごとではなく、それを人生の目的として追い続ける人には、どこまで行けばおしまいという終着駅は存在しない。それが芸の道であろうと、物を作るということであっても、政治家、宗教家、管理者、経営者であろうと例外ではない。求道者とは、その道一筋に人生を歩む人であって、それなればこそ立派な業績が残せるのだ。比較する対象に無限の可能性を追い続ける人と、自分より低い者としか比べてみない人との差は、能力に厳としてあらわれる。人間の持つ力は加速度的に進歩しつつある。慢心のあるところに努力は存在しない。天狗になってはならない。視野を広くもつことだ。今の仕事に全身全霊をつぎこみ、ある目標を達成し、自分の前に立ちはだかる壁を突破すれば、また新たな世界がそこにはあることを知るだろう。我々の行く手には限界がないのだ。常に謙虚な気持ちで与えられた仕事に全力を投入していく。これがサラリーマンではなく、プロとしてのビジネスマンの行き方である。天狗は芸の行き止まり、進歩を求めるためには、まず心の持ち方自体を見直すべきであろう。


2006.09.29:反田快舟:[メモ/]