有限会社コンサルネット

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京都国立博物館内に「文化財保存修理所」というのがある。
古美術の修復を行なうところで、長い伝統を持っている。
彫刻、織物、絵画、文書などが長い年月の間にあちこち痛んでいるのを修復する。
現場に行くと、まず場全体の「粛」とした雰囲気が感じられる。
ひとりひとりが、極めて細密で、慎重さを要する仕事に向かっている。
その空気が即座に伝わってくるのだ。
布に欠けたところがあると、その布の材質を確かめ、欠損部分の糸の織目を数え、
同じものを作って補修していく。
何とも気が遠くなるような仕事だが、それを根気よく続け、数年がかりで完成するのである。
修復する時に、補修用の布がもとの布より強いと、もとの布を傷めることになる。
そこで、補修する布は、もとの布より「少し弱い」のがいいが、その加減が難しいとのこと。
なるほどと思うと同時に、自分の昔のことを思い出した。
大学を出て、念願かなって高校の教師になったときは、実に熱心に教育をした。
補習授業などはどんどんやった。ところが、私が張り切ってやっているのに、
生徒たちの成績が思ったほどよくならない。
いろいろ工夫し努力するが、大して効果がない。だいぶたって分かったのは、
私の意欲やエネルギーが強すぎて、逆に「生徒たちの成長の力を萎えさせている」、ということだった。
補修する側が補修される側より強すぎるとダメなのだ。
「ここが欠けているので補えばよい」などという簡単な事ではなく、布の種類、古さ、繊維の数などを読む、
というのは、相談にこられた人に「こうすればよろしい」などと言えることはまずなくて、
一緒になって、過去の歴史や周囲の状況などをゆっくりと考えていくのとそっくりである。

(こころの止まり木より)

偶然嫌い人は多い。「何だそのナンセンス」、「そんなことあるものか」と怒る。
しかし、人生に偶然はつきものと思う。
偶然によって途方もない悲劇や幸運が実際に生じるのだ。
オペラや歌舞伎は実人生の本質を拡大し、歌い上げることによって観客を納得させる。
人生に生じる偶然の底に流れる必然性を感得させてくれる。
自分の人生を納得することは大切だ。ただ、納得する場合に、
知的な納得だけでなく、感情を通しての納得があることを忘れてはならない。
歌舞伎やオペラは、歌うことによって、感情の納得に至るのだろう。
私も仕事の歌い方を考えねばならない。

(こころの止まり木より)

人間が生まれてくるということは、その中に必ず「創造の種子」を持っている。
その種子から芽が伸びていくとき、その人の属する集団のもつ価値観と一致する部分の多い人は、
それを伸ばしていくのが容易であろう。
しかし、その人の創造性は他に見えにくいし、つい全体の傾向に合わせてしまって、
その中にある創造性を見出すことを怠るかもしれない。
これに反して、自分の「創造の種子」が、その人の属する集団、
つまり、家庭、地域、社会、国家などの傾向と異なる場合は、なかなか困難が大きい。
生きていくためには、その人は一応は集団に適応しなくてはならない。
時には、自分の「創造の種子」を強く圧迫することによって、それを成し遂げる必要もあろう。
そのようなときに、その人は神経症の症状やいろいろな「困難」や「苦悩」に出会う。
これと戦ったり妥協たり、方向転換してみたりして、その人なりの「創造の作品」が出来上がってくる。
作品とはその人の「人生そのもの」である。
「私が生きた」という実感を持ったとき、それはいつ誰によっても奪われることのないものであることが明らかで、
「創造」の実感も伴うはずである。
それが、明確なものになればなるほど、一般的な社会的評価はそれほど気にならなくなるし、
それはもっともっと普遍的な存在の一部としての責任を果たしたという自己評価につながっていくだろう。

(こころの処方箋より)おわり

他人を羨ましいと感じるときがある。
羨ましい気持ちが起こったら、それは自然に生じてきたことだから、
良し悪しを言う前に、それが何から来ているのか、考えてみたらどうだろう。
自分にとって実に多くの未開発の部分がある中で、特に何かが「羨ましい」という
感情に伴って意識されてくるのは、その部分が特に開発すべきところとして、
うずいていることを意味しているのである。
「羨ましい」という感情は、どの方向に自分にとっての可能性が向かっているかの
方向指示盤としての役割をもっているといえる。
初めは、困難や苦痛を伴うにしろ、時分が発見したことをやり抜いていくと、
ある程度経てば、その面白さも分かってくるし、
その頃には「羨ましい」感情も弱くなっているのが分かるだろう。

(こころの処方箋より)

欧米の民主主義は個人主義の確立を前提に成り立っている。
一つの提案に対して対案を出し、全員で討議され、全員の意志でどちらかに決定される。
「争点」が明確にされ、それについて論じられる。
日本の場合は、多くの発言者は「こんな場合はどうだろう」とか
「こんなことは考えているか」などと、細部にわたって疑問を提出するが、
「争点」は不明確で、「対案」は持っていないことが多い。
日本的民主主義にもいいところはある。集団の全体のバランスを保ち、
全員が上手く参加してきて、「役割」を超えた働きをするなど、いくらでもいえるだろう。
しかし、このような方法が、「創造の芽をつむ」という著しい欠点をもつことを、
そろそろ、日本人全体が自覚する必要がある。
「創造性とは、全体のバランスを壊すことである」
日本の民主主義は、全体のバランスの維持にこころが向きすぎて、
ゴツゴツした創造性を「円く収めよう」とし過ぎるために、その芽をつんでしまうのである。
日本的民主主義の功罪について詳細に研究する必要がある、と思われるのである。

(こころの処方箋より)

ものを失くせば、小さなものを失う。
信用を失くせば、大きなものを失う。
勇気を失くせば、全てを失う。
(J.F.ケネディ)